禅寺小僧

日々の記です。

いらないもの








ホビーとして、もしくは仕事としてでも、コレクションをしたことがい。
思いつかない。もともとそうなのだ、というのが一番の理由なんだろうけ
ど、広そうに見えるお寺も個人の物を置くスペースがほとんど無く、泣く
泣く捨ててきたものが沢山ある。本がそう、ノートもそう、その他いろい
ろな思いでの品の数々を手放してきた。まあ本当に自分に影響があたえた
物であるならば、物を持っていなくてもこの身体さえあれば、この身のど
こかに血肉となっているはずだからと、言い聞かせてきた。何か感銘を受
けたことならば、どこにしまったか場所がわからなくても、記憶の片隅に
残っているはず。その上で旅をする鳥のように、山で生きる動物のように
身軽に手をカラにして、この世を渡って行こう。











大切にしていたものが、ある一点を越えると急につまらないものに思えは
じめ、逆にうっとうしく感じだすことがある。人間は物を捕らえているよ
うでありながら、実は物に捕らえれているからなのだろう。お供のように
引き連れて、支配しているつもりだったのが、実はお供をしていたのは自
分のほうだったことに気がつく。本当は支配されていたのだ。あれほど大
切に大事に思い、手にかけ、気にかけていたのを、振り切って、エエイと
捨ててしまう。これも気持ちいいじゃないか。今も本は四畳半の部屋にあ
るだけで、もうほんの少ししかない。












木箱をたくさんもらった。100箱できかない数の木のトロ箱で、今まで
倉庫で保存してあったのだけど、倉庫を撤去したのでもう置き場がないの
だという。いろんな時代に作ったもので同じような大きさだけど、縁に書
かれている店の屋号なんかの字体や、木の材質がちがう。最初のほうのは
節は入っているけれど、桧で作ってある。今ではもう作れないだろう、と
思いつつ、毎日、五右衛門風呂で燃やしている。









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