雨の中バイクを走らせてミゾレになった。
「寒いですねえ」
「丹波やからね」
「えっ、老の坂より手前でも丹波ですか」
「桂川越えたら丹波やで」
って言われたけれど、そうなんやろか?
「こんどそのうち、花見しょう、って言ってるんですわ」
「いつ、すんのん?」
「さあ、日にちも場所もまだ決まってません。メンバーにもよります
しね。なかなかどこにすんのか難しいですわ」
「そやけど、花見なんて、その日になって、空見て、ああ今日や〜
っていう日があるやんか、そんなもんやと思うわ」
「そうですね、田舎の方はそんなかんじで集まってますね、今日何時から
そろそろ花見しよか〜って連絡まわるみたいです」
「ぼくはそんな日は午後から休むんや、散歩行くんや」
とのことである。
「だいたい用事があって電話するのは友達ちゃうで。用事がないから電話
するんが友達やろ。ヒマやし電話する。ひとりで散歩するのがちょっと
いややし、さそう。そんで二人で散歩して文句ばっかり、悪口ばっかり
言ってる」
そんなもんか。。
研究会ではいろいろな話を聞いてきた。
どんな価値でもお金で計るいまの経済学の賞味期限もいつまでもつづく
ものではないような気がしてきた。
個人が個人の欲望を満たして満足を求める、利己を土台にいまの経済学が
できてきたのだろうと思いますが、昔の仏教は利他ということをさかんに
言ったのです。他者のためにする、共同体のためにするというのは、明治
以後、特に戦後はもう評判が悪くなって言わないのですが、江戸時代は
仏教は利他を説いていたと思います。発表者の人にそう言うと、そうです
江戸時代は支配体制を作るためにそうしてたのです。これからは仏教界が
もうちょっとそういうことを言ってもいいのではないですか。とのこと。
しかし今は政教分離の時代ですし、葬式仏教の時代ですし。
新しいエネルギーが開発されない限り、人間が使用可能なのはあと100年
分くらいしかないようなのだけど、まあ無くなってしまったら、またそん
とき考えるのでもいいような気もしてきた。現代文明を享受する生活がで
きないだけで、別に命まで取られるわけではないだろうし。素寒貧の生活
も慣れれば、こんなもんかな、って思うかもしれない。
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