禅寺小僧

日々の記です。

なれのはて















あれから、ひと月が過ぎていった。
ちょっと雪がちらついたりしていたのが、嘘のようで、暑くてたまらない
ってふうになって、新緑が生い茂って、山の中はむしろ暗くなった。けど
ほんとうに、あっという間のことだった。見てみたい、っていう物好きな
人がいたから、いっしょに四月のあたたかい空気を楽しみに。



















初めて会ったときは、逃れようと、力強く、何度も何度もジャンプを試み
ていたころは、武将が着ける兜のように、枝分かれした大きな角を悠然と
左右に広げ、美しい毛並みで、贅肉や脂肪がまったくなく、隆起した筋肉
を誇る王者であった。夕日に照らされた彼はキリリとしていた。二度目に
あったときは朝の雨に濡れて、ちょっと口をひらいたまま、目玉を抜かれ
空洞になった穴で景色を眺めていた。動かず、もの言わず、動物に身体の
後ろ半分が食われて、変わりはてた姿で地面にすわってた。


















蛋白質が分解する臭いがして、つまり魚が腐ったのと同じ臭い。同行者は
こんな臭い嗅ぐの久ぶりですね、と言った。現在進行形で死んでいっている。
確かに心臓がとまったり、脳が死んだりという時点をもって、死とすると
いうのは知っていて、あきらかに死んでいるのはわかっている。ただ彼が
生きているときから、知っていて、殺されてしまって、食べられてしまう、
っていうのを見てきた。柔らかい腹から食い破られ、内臓は引き出されて
すべて食べられてしまい、肋骨はもう簡単にポキポキに折られてスペアリブ
は食いつくされ散骨された。頑丈そうな背骨も容赦なくへし折られて、毛皮の
中身の肉はサーロイン、ロース、モモ、肩ロース、すべてが持ち出されて、
食べあとの肩甲骨や背骨、骨盤なんかが、そのへんに転がっている。毛皮は
かたくてなかなか破れないのか、食べ物として興味がないのか、そのまま
残されていて、足の先の爪あるあたりは毛皮の中にそのまま残されていた。
首の周りの肉を食べれたせいで、顔は地面にひっつけられ、首の骨が宙に
浮いている。


死体のうち残ったのは、角、毛皮、毛皮にひっついてはがせなかった足の爪、
肉はなくなったが、脚の骨、首の骨。あとひとつ、動物にたべられなかったのが
頭骸骨。下を向いてはいたけれど顔は残されていた。少しあげてみると死液が
とろりとしたたり、白いウジが元気に動いている。動物に食べれなかった脳が
残され、腐って液状化しつつ地面に吸い込まれてゆく真っ最中だった。浄土って
こんなもんなんやな。昔の絵でシャレコウベが野ざらしになってるのがあるけど
なるほどシャレコウベは残りやすいのかもしれない。頭を割るのは難しいやな。
人間が歩いていて、怪我でもして動けんようになったら、やっぱり熊さんから、
カラスやら、ウジ虫やらみなさんにつつかれることになるのだけれど、人間は
かたい毛皮がないから、もうほんとうにバラバラにされてしまうだろうな、
跡形もなく。シャレコウベぐらいは草むらに転がるかもしれない。


成仏してるな、って思った。きれいに食べつくされて、精進料理を食べ終わった
あとのような感じがした。鹿づくしのフルコースだけど。お説教をする布教師さん
の会で死後の世界のことについてどう説くか話題になっていたけれど、よくわから
なかった。お釈迦さんも答えなかったそうだ。食べつくされた跡だけあって、
たくさんあった煩悩はもうそこには無いような気がした。人間世界の義理や人情も
もうなかった。お葬式をした後、焼き場で焼きあがってきたまだ熱いチンチン音を
たてる人間の骨をみても、もう誰の骨だったかもわからなくて、人格はどっかに
行ってしまったといつも思う。お金持ちだった人も、持ってなかった人も、賢い
先生も、そうでなかっても、人格者でも、そうでなくても、どんな死に方をした人
でもあまり区別がつかない、変わり果てた、でもせいせいした感じで釜から出てくる。


鹿を見てから戻って、池のはたを散歩した。焚き火のあとがあって、ちかくに
大きい骨が一本落ちていた。
これ、鹿のですかねえ?
どうなのか、ようわからんかった。鹿のかもしれんし、人間のかもしれないし、
もう区別つかないな。












借用申す地水火風


返上申す地水火風


妙々が妙なる法に生まれ来て


又妙々が妙に死にゆく










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