禅寺小僧

日々の記です。

お経の話





大施餓鬼=夏のカンカン照り、修学院の共同墓地でこのお経をよみましたなあ。
墓のすみに屋根のついたところに坐っていて、檀家さんが呼びにくるとついて
いって、お墓の前でお経をあげる。沢山の仏さんの名前のオンパレードのような
お経で、このお経をあげていると、ひとりづつ仏さんがおでましになり、最後の
十方三世の一切の諸仏。諸尊菩薩、摩訶薩。摩訶般若波羅密。のところで上下、
左右、前後に膨大な数の仏さんが千体仏のようにひろがってゆくようなそんな
賑やかなお経です。


仏頂尊=呪文がお経になっていて、意味はわからないままよんでます。
勝手にお祓いのお経かな、とおもっている。あるとき、玄関におばちゃんが
息子夫婦を連れてきて、お経をあげてほしい、といった。聞けば息子夫婦に
子供が授からないので、御先祖さんにお経をあげてほしいとのことであった。
その息子さんはお医者さんなので、お経をあげて子供を授かる???
だったかもしれないのだけれど、おばあちゃんについてやってこられた。
サテ、何のお経をあげらええもんだろうか?
そのときなんとなく頭に思い浮かんだのが仏頂尊で、午後の本堂で他のお経
とともに仏頂尊を諷誦した。
その後、数年しておばあちゃんが玄関に、可愛い女の子のお孫さんを連れてきた。
この子があの時の、、ホンの少しこの子の誕生にかかわったような不思議な感じ
だったよ。


まさかお経が効いたわけではなかろうし、そのときもそれまでもいろいろ、
あれこれされていたのが、えぇぃどうにでもなれ、こうなりゃお経でもなんでも、
とお参りされたのが良かったのか??


長い間伝えられてきたお経には、やっぱりどこか、何かがあるのかもしれない。
いろんなお経があるから、どれでもよんでみて、自分にいちばんしっくり感じ
られるものを選べばいい。お経の意味を読んで理解するのも大事なことかもしれ
ないけれど、お経と一つになって、あげるのもいいのではないか。


禅問答を拈提するときは、州曰く無ー。無ー。無ー。むー。むー。。。
と心に念じてゆくわけで、意味や文字言句にとらわれてはいけない。
ただ、ひたすらムー。ムー。ムー。と念じていって、そのうち、ポッカリ
悟るわけで、お経をあげるにしても禅宗的には意味をどうこう論じるより、
どれだけお経と一つになれるか、どれだけ自分自身をその中に投げ込めるか、だ。
どれを読めば、ではなく。


精神的な強さ、それが現代にはもっと必要な気がします。
仏教もその点では何か役に立つのではないでしょうか。