禅寺小僧

日々の記です。

生きるのがラクになるお経





朝起きて、お茶かコーヒをちょっと飲んでから、くらい本堂で坐禅
まねごとをする。気分がのってきたら、お経をはじめる。たいていは
低声でそっとあげるのだけれど、その日の調子で声がでたり、でなかったり、
全身をかけめぐらずに、どこかで声がつまったりすることもある。
声がつまらずに全身をとおってゆくようにお経をあげるだけで、ちょっと、
調子を取るような感じで、生きるのがラクになっているのかもしれないな。


あげるお経はいろいろあるけれど、般若心経、観音経、大悲咒、大施餓鬼、
仏頂尊、国師遺誡など、その他にもいろいろあるけれど、それぞれに深い
意味があることと思う。般若心経は空の思想、観音経は観音菩薩の功徳など。


難しい意味については他のよく勉強しておられる和尚さんなり、学者さんの
解説をお聞きしていただくことにして、どんなイメージでお経をあげているか
というと。


般若心経=玄奘三蔵が天竺への苦難の旅をして命をかけて持って帰られ、
訳されたお経だからでしょうか、よんでいると旅路の砂漠に太陽が昇ってくる、
または沈んでゆく風景がよぎります。ズンズンと昇ってくるのですよ、太陽が。
旅の朝に、旅でなくても。


観音経=観音さんの功徳、どこにいても救ってくださる観音さんを信じなされ。
念彼観音力、というフレーズが繰り返します。尊敬する音楽家と話していると、
観音経は8ビートやからな、とおっしゃた。今まで考えたこともなかったが、
観音さんというのはそういう感じらしい。なかなか迫力あるではないの。
天竜寺の先々代の管長さんだった関牧翁老師は男前のきれいなお顔をされた
方だったが、きれいになりたかったら、朝、水で顔を洗って、観音経をあげなさい。
自分の心に観音さんを思い浮かべながらあげなさい。とおっしゃっていた。
そういうふうにお経をあげれば、心の中の観音さんが表にでてくるのだろうか?


大悲咒=観音経の中の呪文であるらしいけど、子供の頃の両親や祖父母に
やさしくしてもらったようなお経で、表からガラガラッと格子戸をあけて
入った中庭に差し込んでいる、ちょっと滲んでいるようなのどかで新鮮な
光のイメージです。法事でこのお経をあげていると、その法事の何回忌かの
おばあちゃんが本堂の内陣から出てきて、経机の前に坐ったらしい。
それを発見した奥さんがびっくりして、お盆にお参りにいったとき、
お寺に住んでいて怖くないですか?ときかれた。
いや〜、実は見えないもので。。。
その他にもお経のさいちゅうに母親やおばあちゃんがでてきた。って人が
いて、でも笑ったり、いい顔をされている、らしい。。