禅寺小僧

日々の記です。

お墓に行くのは、、





大分のお寺の彼岸会で新井満さんの歌の、千の風になって、
の話をちょっとさせてもらった。みんなこういう話は好き
みたいで、しかもお墓の話でなんだが歌の話なんでけっこう
こっちも話しやすいようなところがある。


墓参りしない 理由に 千の風 
って川柳があって、そこに(死んだ)私はいません、のフレーズ
ばかり取り上げられ、お墓はもう必要ありませんとなると、お寺も
困ってしまうんだが、文芸春秋にあった、千の風になって誕生秘話
などを見てみると、死や墓が冷たく暗いイメージで語られ、触れることが
タブーであるかのようなのを変えたかったそうなんだ。


死ぬこと程、誰にも、どんな生物にも平等なことはない。
しかも死んで何もかも終わりになるのじゃなくて、風に生まれ変わる
星や風や鳥、さまざまなものに再生して、さらに生き続ける。
ことで肩の荷がおりて、気持ちが軽くなる、執着から開放される。
だからあの歌を歌うと誰もいい顔になるんです。と書かれている。


実は新井満さんはお墓参りが好きな方だそうで、好きな人に会いたいと
思うと、お墓を探し出しておまいりなさる。
ドフトエフスキー、ワーズワースマチスシェイクスピア、スウィフト、、、
雪舟芭蕉良寛、龍馬、歳三、、、、、、、、
墓前に立つと、静かに眼を閉じて心を平安にする。そうすると、ときには
幽かな声が聞こえてくることがある。じっと耳を澄ます。
死者との対話が成立することもあるのだ。
お墓は死者の「現住所」であり、死者と会える「面会所」だと考えている。


そのように書かれている。
毎年、お盆の入りの8月7日になると、峠を越えた山沿いの村に早朝、
寄せていただく。家のすぐ後ろの山の斜面に先祖代々の墓を置いておられて、
墓石一つづつにお経をあげてゆく。墓の周りには、線香、蝋燭、水、山から
取ってきたシキミに花壇から切ってきたような花、果物、きっとあるのは
マクワウリ。ナスやらキュウリ、お菓子、ジュース、あれこれ思いつくもの
を一杯に捧げてある。蚊がいっぱいいるんで、お経をよんでるあいだ中、
後ろから団扇であおいてもらう。


家のすぐ後ろからご先祖さんに守ってもらっているわけだな。
たとえ何処にいても、何をしていても、草葉の陰からか、後ろからか、
上からか、どっかからご先祖さんに見られているような気がする。
心のレベルでは、決してひとりではない。それにお墓の前では
世間のしがらみから素直になれる。
亡くなったおじいちゃんや、おばあちゃんと話すのもいいじゃないの。