禅寺小僧

日々の記です。

 川上哲治料理本の前書きで。「その中で一番旨いものを食べているのは、禅寺の修行僧たちである。」と書いていたことがあったけれど、道場を去った人が、何かの行事などで帰ってくると、「やっぱり道場のメシが一番ウマイな。」とか言うんだワ。毎日毎日同じモノを食べている修行僧にしてみれば、「それやったら道場戻れよ、」とか思うわけだけど、実際そんなことがあるわな。

 僧籍には入っておられないけれど、若いころからの座禅修行を何十年も続けられた剣道の達人がおられて、居合のの稽古、座禅をして、朝御飯を食べられるのが日課になっている。一人で食べられるのだそうだけど、禅道場で食べるときと同じ食事のお経を読んでから、食べておられる。「なんでなんですか?」と尋ねたら、「ウマイから。」と答えが返ってきた。お経を読んだほうが、これから食べるんだ!という気がしてくるし、それで食べるとやっぱりおいしい、と。
   
 食べ物が足りなくて、飢饉になる時代から、食料が余る社会になって、世界中のおいしいものがスーパーに溢れている。美味しいものを食べて満足したい欲望が一番大きい時代かもしれない。けれど味覚は、感覚であって、主観であり、その人の偏見そのものでもあるから、同じものを食べても味の感じ方、満足度はその人、その人によって違う。一人で食べるか、みんなで食べるかによっても違う。その人の素養、思想によっても、もしかしたら違うんではないか。自然の恵みに感謝して食べるのと、なんとなく、ただ、食べるのとでも、皿のなかの同じおかずでも違うはず。こちらの感じ方で味わいはどうにでも変化するのだと思えば、モノが無い時代の、昔の人の方が美味しく味わう食事をしていた、ということがありはしないか。今までの食事のなかでおいしかった、と覚えてるのはどんなときだった?
   
 あなたとは、昔、「せめて、心豊かに生きたいものだな。」と言いあったことがあったけど、どうせ終わりある、一度きりの人生ならば、気持ち良く生きたい。御飯だっておいしく食べたい。「いただきます」と唱えたところで宗教でもなんでもない。恵みを与えくれる自然と人間をつなげる言葉、誰の為でもない、自分の為の言葉。子供達に、おししく御飯を食べさしてやりましょうよ。
  
   
  
せ。