禅寺小僧

日々の記です。

それは、逆効果なんじゃ











たまに、禅の修行に、お茶やお花の若宗匠がいらっしゃる。茶道や華道の源流が仏教と関係があるから、そこのところを勉強するために、なんだろう。繊細な芸術をされている若い家元が、むさくるしい禅の修行されるのは大変だろう。朝は3時、4時の暗いうちから起き、朝課、粥座、日天掃除、托鉢と息つく暇もなし。テレビ、ラジオ、新聞、インターネット、スマホ、携帯その他すべて関係なし。冷暖房もなし、暑けりゃ暑いまま。寒いなら、寒いまま。寺の畑で野菜作って、台所の薪も自分らで作って、自然志向の人たちにしたら羨ましがられそうな、一見優雅な生活。ただ、ゆったりと流れる微睡む時間なんてものはない。若い修行僧どもが集まって何年も共同生活を送りつつ、坐禅と禅問答にあけくれるのだ。借り物の言葉で説明できるような自己ではアカンのだ。


で、ついこの間も、道場の本堂にお参りすることがあった。本尊前の香炉と燭台と花瓶ののせてある机の上に、細かい細工の施された薄い水色の七宝焼きの花瓶が置いてある。今だったら作れるかどうかわからないような、たいへん高価なものである。ところが、その中に活けてある松が凄い。境内にある大きな松に登って、テッペンから梢をノコギリでごりごり切ってきたヤツを、ドカン!!と突っ込んである。真っ直ぐに先は天を差し、もしもここが普通の家だったら天井に届いてるよ、っていう程のモノ。左右の枝も堂々とはりだしたまま、内陣に入って焼香しに行かねばねばならんのやが、横を通れないくらいデカく、もの凄く邪魔なんだ。小さい花瓶に、いや花瓶は大きいんだが、松が馬鹿デカすぎ。松の高さが花瓶の4・5倍あるぞ。調和もクソもあったもんでない。だいたいコケたらどうするんや。あの花瓶はなあ。。


ところが修行してたらそんなことは、これっぽっちも思わんのだな。(後輩に)おーい、あの松のテッペン切るぞ。ゴリゴリ。花瓶に入れろ。うんヨシ、いいじゃないか、いい感じだ。入っているのは巨大な松の枝だけで、その他は何もない。実に潔い。立派だ。


そんな感性のところに次期家元が何年も修行に来られてる。


次期家元にお会いしたら、玄関に活けておられた。キチンとした、立派なお出迎えの花だった。修行いかれてたいへんでしたね、社会復帰が。雲水のあの感性では、一般の人は誰も花習いに行こうとは思いませんもんね。特に女性は絶対に来んだろうからなあ。芸術性のカケラもありませんから。でも修行僧のパワーは凄いですね、でも、雲水してた頃は自分でもドえらい松活けて、ヨシ!これでいい、と思ってたんだから、不思議な空間ですね。














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