禅寺小僧

日々の記です。

一神教と多神教と













イギリスの学生さんに、端的に禅のことを言葉で説明してくださいということなのですが、本当はこんなことは言葉で話してはいけないことで、昔の偉い和尚さんなら、「そんなことは口で話して耳で聞いても何の足しにもならん。坐禅せにゃわからん、まずは坐わってみぃ」とおっしゃるでしょうし、また実際そうだろうと思います。はたしてうまくいきますでしょうか。


まず、みなさんに質問させていただきます。この世を成り立たせて、動かしておられる「神様はどこにおられると思いますか?」「天の上のほうにおられると思います」そうですね、この世に唯一ただ一人、最高の神様がおられると感じる宗教は、一神教とよばれています。


日本の神道や神社の神様はどうかと言いますと、太陽神のアマテラス、月神ツクヨミ、荒ぶる神のスサノオをはじめ、八百万(やおよろず)の神様がおられます。八百万とはあっちにもこっちにも沢山の神々が無数の神々がおられると感じる宗教で、多神教とよばれています。草の中にも木の中にも、山にも、川にも神が宿っていると日本人は感じています。


一神教多神教も、天上の唯一神でも、山や大岩や滝に宿る神々でも
、どちらも人間の外側に神を感じています。そして人間が神に近づくには、神の前に頭を垂れて祈るのです。神を崇敬して祀るのです。


これに対して人間の中に内側に神がいらっしゃると感じる宗教もあります。自分の内側にいらっしゃる神様に近づくには、瞑想をするのです。座禅がそうです。偉い和尚さん型が坐禅せんとわからん、とおっしゃるのはこのためです。


禅ではこんな譬えをします。心という大きな湖があるのですが、いつもは水面に波風が立って揺れ動いています。私が私が、俺が俺が、と言っている自我とは、この湖の水面に立っている波のことと言っているでのす。禅の修行では水面で波を立てている自我を沈めてゆきます。喜怒哀楽や俺が俺がという感情やエゴがが薄らいでくると、水の表面の波が静かにおさまって水が澄んできます。それまで見えなかった水底を覗きこむことができるのです。


この水底が自分の内なる神様なのです。俺が俺がと言っている自我が消えてしまったとき、「あれ、俺が無いぞ」とどこかでキラキラと感じるときがそうなのです。外に向かって探す必要はないし、探したところで見つからないのだと、言われるのはそのためです。書物の中や他人の言葉やネットの中など、自分の外に向かったとたん、もう別のものを探していることになるからなのです。


あなたどんなにつまらない駄目人間であってもその奥底には神様がおられます。そして自分の奥にだけではなく、隣にいるそれぞれの友達の中にも、この暑さでへばっている犬にも、猫にも、うるさいぐらいに鳴いている蝉にも、自然の山にも川にも草にも木にも神を見てゆくのです。






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