禅寺小僧

日々の記です。

山紫水明

daimonji

いつだったか比叡山千日回峰行をされた方とお話させていただいた
ことがあって、そのとき、「下界で修行なさってるんですな。」
といわれ、そう言われてみればそうだなあ。とおもったけど、
山上にきて風に吹かれて街を見ればなるほど、下のほうでウヨウヨ
人間どもが集まってなにやらやっておる風景が広がる。
下界にいるときはそれぞれ個人で自分の好きに家を建てて
住んでいるように感じているけど、山上からみると
ニンゲンという生物はウジャウジャ固まって、低いか高いか、
ワンルームか豪邸かぐらいの違いはあるにせよ、
箱状の巣穴を作って集団で棲息している、のが見える。
そこでは生まれたり死んだり、また生まれたり
喜んだり悲しんだりで忙しいけれど、京都を抜け出して登ってくるときに
下界での苦しみはどこかへ置いてきてしまうようで、
汗ばむ体で冷たい空気を吸って眺めていると、
少し、楽になる。
子供が「いっせいのーで。」といって
「ヤッホーー」とやっていたけれどあれも気持ちいいだろうな。
考えこんでもきりがないし、答えのでないこともいくらでもある。
悶々とあの時こうしたら、とか、なんでなん、と思っても
自分のやるせない心は受けとめきれないし、耐えられない。
心ばかり砕いているとこちらまでおかしくなってしまうから
手足もつかって歩いたり手で物を作ったり、時には涙を流してみたりする。
なんでだろ、と思ってもおもっても、わからないし、もどれない。
静かに御寺参りしたり巡礼したりというのも、そんな思いを
どこかにあずけるためにあるのかもしれない。
返しているのかもしれないけど。
人間で解決できないことは神仏のところへいって
御願いして頼んでおくしかないか、と最近おもう。
供養っていうのは、供(とも)に養う。とかいうことで
祭られる人とともに自分の心を養うことをいっていて、
今、これから、みんなで成長していこう、ということだ。
亡くなられた方に笑ってもらえる為にも、そうありたい。


せ。