禅寺小僧

日々の記です。

行事のこと









今年も始まってもう一月たっていまさらなんだけど、去年もいろいろあった。はたから見てたらたいしたことないばかりで、ヒマそうですねえ〜となる。やっているのは寺の伝統行事をなんとかこなすことだけだから、今の若い人からしたら同じことの繰り返しなだけで意味がないように見えるんやろう。自分自身の昔をふりかえってみても、行事ごとなんて大嫌いだったし、何よりもめんどうで苦手だった。しかし長じてそうでもないようにおもえてきた。父親の故郷が山奥の村で、子供の頃にしばらく住んだから想いの深い、今の自分の土台の何分の一かをつくってくれた地でもある。人も多くて賑やかだった。秋の祭りの前にはみんなで笛の練習なんかし、だんじりを曳いた。少しだけどどこからか夜店を出す人もきてくれて、アイスクリーム屋なんかがあった。今はあの人もあの人もなくなってしまい。両側の家も誰も住まなくなってしまった。ある時NHKのTVをみていたら、どこかの山村の祭りの番組があって、かつて父親がやった祭りの舞をこんどは息子がやることになって特訓をし、無事、大役をまっとうする物語だった。どこにでもありそうな話だった。でも見ているうちに、この村の人たちは偉いな、と思うようになった。この村にもだんだんと過疎が忍びより戸数が減っている。村にはいろいろな役があって家にまわってくるから、ある程度の戸数がないと回っていかないところがある。この村もたいへんなのだけど、なんとかして祭りの伝統を絶やしてはいけないと思っておられる。なかなかできひんことやろうと思った。ウチの村では大変になってきて、若い人もいなくなってしまってやめてしまったことが沢山あるだろう。行事が小さくなり、なくなってしまって、村って何やったんかなあ、と思う。TVの村の人たちは偉いと思う。行事は、伝統とか文化って言ってもいいかもしれないけれど、それをつづけることが村を守ることだったのかもしれない。


一年のうち一番おおきな寺の行事は開山忌で、このお寺を最初に開かれた和尚さんの命日に縁あるの寺和尚さんや檀家さんらが集まって、ふだんは使わないお堂が開かれて、不謹慎かもしれないけれどちょっとしたお祭りのようなかんじがある。もちろん出店はでないし、遊び半分でやっているのでももちろんなく、真剣に努めさせてもらっていただいている。むしろこの時だけ、一年に一度だけ集中して真剣にとりくんでいる。去年で終わったけれど、三年間、イノウというお経を始める役がまわってきた。たとえばみんなで般若心経をあげるとしたら、最初にイノウが一人で「マカ〜 ハンニャ〜ハラミタ シ〜ン ギョウ〜〜〜」とかやったあとに全員が「観、自、在、菩、薩、、、、」とお経をつづけていくんだワ。全員でのお経が終わったあとにはまた一人で、このお経が誰々のためにあげましたという内容の回向という祝詞のようなのを読むのだけど、やってみるとこれが難しい。子供のときから聞いて育っていたら先輩方は、「やってみ、っていわれたらスグ出来たけどなあ」とか言われる。子供がテレビで流行りの早口の唄でもなんとなく歌えてしまうようなものかもしれない。子供の耳ってのは特別なのかもしれん。お経には独特の節があって才能のないものには四苦八苦なのだな。一年に一度の大きな行事でソロのパートがあって目立っていいなんてものではなくて、若手にとってはいちばん大変な役だった。大きなお堂でお経をあげるのは、ただ流してお経をあげるのとちがってそれなりプレッシャーもあった。この三年間、いつも頭のどこかにひっかかっていたような感があった。音楽的な才能に乏しいので、教えていただいた和尚さんが身体のどこで声をだしているのか、眼を凝らして感じようとしていた。昔ある和尚さんがおられて、その人のお経はどこからともなくゆっくり聞こえて、低音が地響きのように伝わってきて、お堂にいる人はどこで何がはじまったか理解できなかった、というような話をきき、どんなんやったんやろうと想像した。「あ、はこうや。お、はこうや」とそれぞれ母音の発声法を教えてもらう。そうなんですか、と答えるけれど、肝心なところが理解できているわけではない。自分のハラの底から出ているものではなくて、物真似のようなお経。本物の歌手と、その歌手をモノマネしている歌手がいて、本物とコピーのあいだには何か違いがあるようなもの。コピーでも魂がこめられたらその人のものになるのかもしれないけれど、なんとなくこれくらいなら怒られないだろうかな、と 思いつつやっているのではダメだった。たまたま京都駅ちかくの映画館に入って、コンサートのライブ映画を見て、大映しの歌手の歌う姿を見て、わかった。ああ、声の出し方っていうのはこういうことを言っておられたのか。檀家さんのところでお経をあげたら、変わりましたね、と言われた。わかってくれる人もいる。でも三年間、行事の役にあたらんかったらお経の発声のこともちっともわからずに過ごしていたことだろうから、しんどい思いはしたけれど、ありがたいことでもあった。少しだけだけど、行事に役にあててもらったおかげで少し成長させてもらえた。もったいないこと。







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