禅寺小僧

日々の記です。

生きる力





生きる力っていうのがいつもアタマのスミにあったんだけど、文科省でも「生きる力」=知・徳・体のバランスのとれた力。変化の激しいこれからの社会を生きるために、確かな学力、豊かな心、健やかな体の知・徳・体をバランスよく育てることが大切です。っていうことを言ってるよな。まあ昔からそうだったんだろうけど、そんなことを意識しなくちゃいけない時代でもあるんだろうな。ココロにひっかかってるのは「黒子のバスケ脅迫事件」の被告人最終意見陳述分のなかで、被告人が「生きる力」は「安心」に担保されていることを述べていたからなんだ。安心は安らかな心なんだけど、宗教的にはアンジンと発音してまあひとつの悟りなんだな。「達磨安心」といういう有名な話があるから、またそのうちに






 


12月12日







互いに忙しくなかなか会えないけれど、碩学の仲間がいて久しぶりに会って話をするのが大好きなんだ。目の付け所がよくて、通説にとらわれずシャープに切りつける。それでいてしっかり肝がすわってる人。エラソぶらない気さくな風貌だけど、坊さんには珍しく学問も深く勉強した人でもある。日本中の田舎でどこも同じの話題、過疎化をどう食い止めるか。そんな会議に出席したおり、県庁の職員がじゃあどうするかというので、「宣伝をします」と言ったらしい。「そんなこと言ってるからダメなんだ」(県庁は都会からの新住民を募集しますということなのかもしれませんが)あなたはなぜここにいるのですか?それをよく考えないといけませんよ。自分の能力を大きく評価してもらえるということ、なら私だって東京に行ったほうがはるかにいいんですよ。もちろん青色発光ダイオードの中村教授のように自分を評価してもらえる場所に行きますという人もいます、コスモポリタンですよね、それはそれでいいんです。でも私たちはこの村にいます、それはなぜなんですか。








12月13日









若者が都会に出ていくより村に残るほうがいいと思う、あるいは都会から故郷の村に帰ってくるのは何故だかわかりますか。都会で会社に勤めていてクビになったらどうなりますか。給料が入ってこなくなってアパートを出なければならなくなったら、もうすぐにネット難民になってしまうかもしれないんですよ。ネットでアルバイトを見つけて日銭を稼いで、パソコンと椅子のある部屋に戻ってくる。それの繰り返しだけでそれ以上何もできないことだってあるんです。極端かもしれませんが都会の現実はそんななんです。


じゃあ田舎はどうだと思いますか。もう生まれた家は無いんですけど、仕事を失って都会から帰ってきた人がいます。戻ってきても住むところは無い。だけど同級生たちがいますから、おまえあそこの小屋があいてるから住んでいいよ、仕事無いんだったらまあウチで飯でも食ってけよってことになるじゃないですか。これが田舎のいいところなんです。手伝いかなんかしてるうちに、友達から、知り合いから、こんな仕事があるよ給料安いけどやってみない?って話がくるでしょ。都会だったらこんなことなかなかありませんよ。









12月14日








お茶だったらお点前っていうのがある、同じ流派の人は同じことをします。坊さんの修行道場だったら細かいきまりが沢山あって、それにのっとってみんなで共同生活をして、同じことをしています。同じ場所に住んで、同じ言葉を話して、同じようなしぐさをする。これが文化なんです、そして同じことをするメンバーは家族と同じなんです。だからこの村に居続けるんです。じゃあどうすればいいのでしょうか?答えはあたりまえなんですよ。神社は祭りをする。寺の和尚は毎朝お経を読んで、鐘を打つ。あたりまえの伝統行事をみんなで大切にしないといけないんです。そうじゃなきゃ村じゃなくなってしまう。都会じゃ人間はもしかしたら差し替え可能な単なる労働力ってことになるのかもしれない。でも同じ文化を共有する村なら、それぞれがかけがえのない家族のようなものなのです。そういうことを子供に学んでもらって、将来都会に出て行かないでもいいように、また出て行っても帰ってきてもらえるようにしなくちゃいけないんじゃないんでしょうか。


それと小学校と小学生にも自分の食べるものくらい自分らで作りなさい、って言っています。どうせ周りは耕作放棄地ばかりじゃないですか。そんなとこから子供たちが変わってくるじゃないかと考えているんです。








12月15日









316004