禅寺小僧

日々の記です。

あれもせんなん、これもせんなん。

いつもやり残したことに追いかけられて生きている。追いかけてくる奴が
一匹ならまだいいけれど、何匹にも増えてくると追いつめられてくる。
猟犬に追いかけられて、猟場にさそい込まれそうになっていくのだろう
か?あんましエエ気分ではないわな。とりあえず一匹づつつぶしていく
よりほかない。それが負けないことなのだろう。












美術館のホールでの講演の練習をする時間がなかなか取れない。
切符はもう売り切れているらしい。観客の前でひとりで般若心経をあげ
る。いちばん最初。最初が大事なんだよ。これでそのあと全体の雰囲気が
決まる。成功するも失敗するも、最初で決まる。普通のコンサートではな
いから。ここはソロでいこうということになった。お経を読むとき、いつ
もは個人の節をつけずに、棒読みで、木魚のリズムにあわせて、トントン
と読んでゆく。それで何人もので読んでいるお経がバラバラにならずに、
そろうわけなんだけど、そのせいで単調に聞こえるということもある。お
経は耳で読め、といわれていて、ほかの人と同じように全体に合わせなさ
い、自分勝手に我鳴ってはいけませんよ、ということなんだ。ただそのせ
いでポクポクと心地いいのはいいけれど、眠くなる。お経に力が宿らな
い。












お経のよくあるパターンは、如是我聞〜〜このように私は聞いています。
というところから始まる、お釈迦さんがどうされた、どうおっしゃったと
という話だ。お釈迦さんの説法がそのまま書かれているといってもいい。
そのお経をいつもは本堂のお釈迦さんにむかってあげているわけだけど、
今回は観客にむかって、お釈迦さんになりかわり??説法ふうにしようと
いう。そうすると節をつけてみんなであげるわけにはいかない。ひとりで
、息継ぎのタイミングも話の内容にあわせてほしい。どのようにするかは
自分で考えてくれたらいい。
大役だ。いつも本堂でやっていることを、舞台に行ってそのままやればい
いというのではない。説法にするのなら、お経の内容、意味もわかってい
なくてはいけない。いつもは読むのが仕事だから、内容はよくわかってい
なくてもいい。けれど、今回は違う。なかなか大変なことになってきた。
だけど思い返せば、ここ一番の大事な場所は、いつも、ひとりだった。
友達はいつも後ろから応援してくれている。だけど、その場所に立ったな
らおのれの力をふり絞るほかない。











161110