禅寺小僧

日々の記です。

動中の工夫は静中に勝ること百千億倍










寮にいる学生さんはだいたい真面目で優秀な人で、
肩身が狭かったりする。夜、何人かで集まって話してた
とき、チベット仏教の研究をしてる学生さんが、チベット
にまで行って、修行してきた話を聞いた。
向こうでは洞窟に一人でこもって瞑想修行するらしい。
整えられた環境で深い瞑想に入ることだろうと思う。












それにひきかえ日本では、、、
禅堂の中で横一列に並んで坐禅するわけだけど、
警策でバンバン背中を叩かれて、コラーッとか
罵声が飛んでいたり、でなかなかゆっくり坐禅させては
もらえない。禅堂での座禅がおわって、夜座で縁側に出て
いるようなときくらいだな、自分でゆっくり坐れるのは。
それも朝から晩まで追いたてられて、やっと深夜に。
じつは道場は坐禅修行に理想的な環境ではないのだな。











理想的な環境をととのえてする瞑想は深い境地がある
だろうと思う。けれど、洞窟からでたらどうなるか、
とも思う。河口慧海の探検記に坊さんに2種類あって、
修行する坊さんと雑用係の坊さんがある、とあったけど
日本の場合は修行も雑用も一緒にこなすんで、ある意味
鍛えられているかもしれない。
せっかく道場にきたんだから、しかし、ゆっくり修行させてもらえ
ない中で、自分で工夫して、なんとかしようとするから、道中の工夫
つまり動き回っているなかでも修行できるようになっていくだろう。
洞窟から出たとしても、修行が霧散してしまうことはない、はず。
「静中の工夫だけしている者は、動中に入って自由を得ることが
できず、世俗的な仕事に入る時は、平生の悟りは、跡形も無くなって
しまう。」っていうことない?とか言ってたんだけど、よく考えて
みれば、チベット仏教では一生涯、僧坊にこもって修行するのだった。
キリスト教修道院もそうなのだった。