禅寺小僧

日々の記です。

夜坐












臨済宗の修行道場は全国にあって、志があって、どこかの和尚の弟子に
なっている僧侶ならどこの道場に修行しにいってもいいことになってい
る。京都市内だけでも、妙心寺大徳寺南禅寺東福寺天竜寺、相国
寺、建仁寺など七ヶ寺もある。いつもはそれぞれ別々に生活しているけ
れども、托鉢のときに町中でおたがいバッタリとでくわしたり、僧堂同士
の会議の席であったり、どこかの本山で遠忌という大きな儀式があるとき
、その本山にあつまって何日か修行をともにすることがある。


そんな顔を知った人々の集まりに去年も参加させていただいて、今年も
予定を教えていただいたところが、2日間だという。チラと聞いたときは
バタバタしていた。??とは思ったけれど、たぶんそのどちらかなのだろ
うと思いつつ、そのままにしておいた。
同じあつまりの別の人に会うことがあって、行くんですか?と聞いてみ
ると予定があわなくて行けないんだという。でも予定は2日間になって
いて、現役の修行僧と一緒に道場に寝泊まりし、次の日の朝は義捐金托鉢
をするのだという。なんと。去年はあつまっていっしょに楽しくご飯を
食べただけだったのだけど。そのうち日程表のメールがあると思いますよ
と言われたとおり、幹事さんからメールをいただいた。
参加していただけるのならば、雲水衣(修行僧が着る木綿衣)、網代
(托鉢のときに頭にかぶる竹で編んだ笠)草鞋、(足に履く、わらじ)
持鉢(修行では自分食器はそれぞれ持参する。黒塗りの五つの器が入れ子
になっている)を持参でお願いします、とある。
メンバーはどの人も修行年数が長く、それぞれの道場の代表を勤めていた
人達だからか、やる気まんまんの雰囲気。えらいことになった。
倉庫から道具をひっぱりだしてきて、かけつけた。













「こちらでお願いします」
坐禅堂のなかの一枚の畳を指さして案内役の方が出ていかれた。
禅堂に入るとやっぱり身が引き締まる。やっぱり場のちからというような
ものがあって、心から俗気が消えてゆく。心の故郷のような場所。
今は修行僧が人少だと聞いていたのだけど、隅々まで掃除がいきとどいて
いる。土間に敷き詰めてある敷瓦もたぶん一枚づつ、雑巾をもち手で拭い
たんじゃないか。臨済宗の僧堂はこのすっきりしたきれいさがいい。
掃除するのも文化なんだとおもう。わら草履をとおして伝わってくる、
敷瓦のすべすべして固く、つめたい感触。いつも坐禅するときに使っていた
大薫香のすがすがしい匂い、それだけで気分は若く修行に打ち込んでいた
ころのモードに戻されてしまう。僧堂で暮らしたことのある人はそうなる。
昔をなつかしがっていばかりではいけないのだけど、ここに入ると日常
とは離れるのと同時にこころの奥底が満たされてゆく。
普段からこちらで坐禅されているという居士さんたちと薄暗い夕景の中
坐を組んだ。ここの禅堂は内部が広い。もう十年以上前にやはりここの
本山で遠忌があり、そのときここで座禅させてもらったが、四方単とい
うらしい。建物の両側に畳を敷き詰めた、単とよぶ列をつくる長方形の
禅堂が多いのだけど、ここは単が四方につくってあって、巨大な正方形の
内部空間になっている。中国風なんだろうか、誰かが鎌倉の円覚寺だかも
こんな感じだといっていた。











2日間の全日程が終わり、分散前、ひとところに集まってそれぞれの感想
を言い合っていた。
「○○さんは、どうでしたか?」
と聞かれたので、
「よかったです。久しぶりにいい気持ちです。吃驚したのは夜坐で眠れた
ことかな。いやあ、私もまだまだできるんだと思いました。うれしかった
な」と言ったら、みんな笑っていた。
夜坐っていうのは、坐禅堂での坐禅が終わったあと、まだまだ修行が足り
ないというので、自主的に坐禅堂を飛び出して本堂の縁側や庭の中で坐る
ことで、本来は自主的にするものなのだけど、今は、実際は、強制である。
そのうえ、このあたりがもともと自主的にするもんだったという感じだと
思うけど、ある程度坐ったあと、上の人から五分づつづらして一人づつ
帰っていくことになっている。人数が多いと自分が帰るのは12時を越し
たりしてしまう。それでいて明日の朝は夏3時半、冬4時に起きるので
まあどうなるかというと、その人のやる気により偉くなられる方はそう
ではないが、なかにはじっと坐禅したまま眠れるようになる人もある。
ここでしか使えん特技なんだが。
冬の夜、坐禅堂の土台の石垣の上のコンクリートに座布団を敷く。
南の中天は薄曇りだけれど月がある。気持ちのいい夜だった。
夜にだしていただいた、うどんもおいしかった。京都のフニャフニャの
うどんの上に精進だしがさっとかかっているだけなんだけど、おいしい。
そんな歳になった。京都のフニャフニャうどんもなかなか味わい深いよ。
「この会は今年はこうなんですか、今年からこうなんですか?」
と聞いたら、
「今年からです」
という答えだった。
托鉢にでるとき、
「その草鞋は作ったんですか?」
と聞かれて
「いえ、買うたんですわ」
「私は自分で作ってきましたよ」
と言っていた。
今年は藁がとれたら、草鞋を作っとかないといけない。





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