禅寺小僧

日々の記です。

土から産まれる









 菜っ葉を作るのが大好きで、小さな芽を出して、だんだん生長
してゆく葉っぱの生き生きと瑞々しい緑色を見ているだけで、
なんとも幸せな気分が湧き上がってきます。寺の裏手の猫の額
ほどの地面ですが種を蒔いておくと、秋の彼岸過ぎには芽を出
してくれます。畑を緑色で埋め尽くしていたのが、冬の日、霜
にあたってカチンコチンに冷凍食品のように凍ってしまっても、
へこたれず、枯れずにいます。「お前も頑張ってるんだナ。」
って声をかけます。滲むような、溢れるような黄色い花を一面
に輝かせ、鞘を膨らますのを眺め、五月の終わり、小松菜も畑菜
も杓子菜もチンゲン菜もいろんな種が混ざってしまって菜っ葉、
としかいいようのない種なのですが、今年も収穫しました。
逞しく、堅く、人の背丈よりも高くなった茎もやがて土に還り、
同化して形は無くなってしまいます。硬い岩石ですら月日ととも
に崩壊して土になってゆきます。植物も動物も土から産まれて、
やがて、土に還ります。ここでは人間の世界の慌ただしい時間で
はなくて、ゆったりした自然の時間が流れています。美しいものも、
汚れたものも、善いものも、悪いものも、思慮や情念もすべて燃え
尽きて灰になったように、あらゆるものを呑み込んで、清らかな、
平気な顔をしています。






 道端で子供を見守り、あらゆる一切衆生を済度しておられるお地蔵
さまは、大地が蔵する力、すべてを産み出し、作物を実らせ、すべ
てを吸収する不思議な力そのものです。私達は母なる大地の上にゆっ
くり坐っているといちばん心が落ち着いて安心できるのです。達磨さん
坐禅する人もどっしりと下膨れでいかにも安定がよさそうで、地面に
根を下ろしているような感じがします。石庭の石も地面から生えてきた
ように据えられています。運動のための週末ハイキングが流行っていま
すが、足で土を踏みたいから山に行っている、という人もいます。都会
生活では土の地面を踏むことがなくなってしまいました。土が無いのです。
スーパーで花の苗を買っても、鉢に入れる土は袋詰めの土を買います。
信じられないことです。その辺のところをちょっと掘って、なんてこと
はできなくなってしまいました。







 蝉は樹の上で鳴いています。虫は草むらで鳴いています。
ムクゲの花は群がって咲いています。白露は玉のように光っ
ています。山も川も草も木も土もことごとくみな仏である、
と仏教は語ります。この地球上のあらゆるものすべてが調和
をもって生きている、今まさに眼の前にある、この世界こそ
が素晴らしいのです。







 キリスト教徒は死ぬとこの世を離れて、この世より美しい天国
の世界へ行くそうです。この世でも彼らはユートピアを求めて、
新大陸のフロンティアを開拓し、新しい土地を求めて、どんどん
世界のあちこちへ出てゆきます。地球の次には宇宙へ行こうとす
るでしょう。







 仏教徒は一ヶ所に住んだらとても大切にその土地を守り、土地と
共に生きてきました。田植え、草取り、収穫など日々の労働と、
太陽や水や土の力、山野を開いて田を造り、水を回し、土を肥やし
育ててくださった先祖のお蔭で我々は生きていられるのです。







 毎年お盆には墓参りにゆきます。田舎町を通過する国道をはなれて、
昔ながらの谷沿いの道を遡ってゆくと、夏の夕暮れの穏やかな西日が
行く先を照らしている。車の窓を開けると、どおっと空気がなだれ込む。
おお、故郷の風だ。おまえの一族郎党が何百年も生きつづけた土地に戻
ってきたぞ。子供の頃は、ギラギラ日差しを浴びて天にむかって伸びる
夏の稲の葉の匂いや、汁粉のようにとろんとしたが匂っていた川沿いの
田んぼは、逞しいヨシに覆われて葦原になり、山の田んぼも樹に覆われた。
御先祖様が汗を流された田んぼも丹精された土も山野にもどり、大家族が
住んでいた家も空き家になってしまった。栄えるというのは、貧富ではな
くて、沢山の人がこの土地の上に暮らすことだろうか、と思いがよぎった。
でもこの場所にくると先祖が子孫を見守ってくれている。掃除して、
誰かがあげてくれた樒に水を足し、線香をあげて手を合わせる。
いつも、落ち着いた、すっきりした気持ちになる。