禅寺小僧

日々の記です。

やさしさの向こう側





最近。ペットと人間触れ合いって言葉が通じないからいいのかな。
なんて思うんですよ。








友人の教師が授業にいくと、教壇の机の上に先週休んだ学生の欠席届が、ポイと一枚、置いてある。教師は言った。
「これは何?。」
生徒の中からも、お願いしますや、って小声がする。
教師が大学の教務部へ欠席届けを届けるのだけど、最近の学生は欠席届という紙を渡せばそれでいいと思っている、海外からの留学生もそう、都会というのは世界中どこでも似たようなものだから、おもいやりの心は世界的に減っていく、と言う。
昔だったら人に何かを伝えるには、玄関まで行って、戸を叩き、相手の顔を見て話した。留守だったら置手紙を書いた。今は便利になって、電話の受話器に向ってしゃべり、メールの画面に向って打つ。人と人の間には機械がある。









若い頃田舎から京都に出てきた檀家さんは、昔の京都の家は夏のうだる暑さと、冬の底冷えで、暑さ寒さが身に沁みるけれど、
「京都にきて驚いたのは、どこの家でも玄関にお香を焚いて、花が活けてあって、美味しいお茶を出してもらったことですな、凄いと思いましたわ。香、花、茶、いまは無くなりましたな。旅館とかには残ってますが。」とおっしゃる。人をもてなす、やさしい心は何処に行ったのだろう。
厳しいからこそ、優しいもてなしの心があったのかもしれない。









旅をして、思わぬ肉厚のもてなしをいただくのは都会より、田舎の、厳しい自然の中に生きているお百姓さんや漁師さんであることが多いのは、風雪に打たれ、暑い太陽に晒されつつ、自然を相手にしているからこそ、人間は一人では生きられないことが身にしみてわかっているからかもしれない。だからこそ厳しさに裏打ちされた優しさがある。









写真家の星野道夫氏の“アラスカに暮らす”というエッセーで、冬の厳しさ、都会の華やかさは何もないアラスカに日本からはじめてやってきた、英語もまだよく理解できない彼の妻に、友人がさとすようにゆっくりと語りかける。
「いいか、ナオコ、これがぼくの短いアドバイスだよ。寒いことが、人の気持ちを暖めるんだ。離れていることが、人と人とを近づけるんだ。」