禅寺小僧

日々の記です。

地球にやさしい





「お寺を使って国際交流ができないか?」
という話を若い人達からいただいた。
具体的にどういうことをしてゆくか、は、まだまだこれから
話し合ってゆくという段階なのだけど、お寺で国際交流する
というのは以外に昔からあって、江戸時代に朝鮮通信使が通られた
おりには寺が宿舎になっていたらしい。当時の僧侶はインテリ
であったろうし、寺の敷地は広いから何かと好都合だったんだろう。


 話では、寺とエコロジーとを結びつけて、交流ができないか、というで、
「お寺はエコロジーな暮らしでしょうから。」といわれたが、
寺ははたしてエコロジーなのだろうか。
エコロジーとは何かはっきり知っているわけではないけれど、
実は寺でるゴミの量といったら、普通の家庭の何倍にもなる。
なかでも一番多いのが、庭木の剪定屑、庭掃除の落葉、
お墓の御供えの花、などで、莫大である。
寺に限らず現代の社会はゴミ社会でもある。
そして現代の文化的生活を支えているのも大量のゴミかもしれない。
二酸化炭素の排出問題でも、平たくいえば、二酸化炭素というゴミを
どうするか、ということになる。
よかれと思って続けてきた文化的生活にも、思わぬ弊害があったのだ。


旧来の寺の生活でいえば、ゴミが出る=無駄がある。というふうに
とらえている。なんとか捨てずに利用し尽そうとするのが寺の生活
であるので、植木のゴミなどは畑に持っていって、土に還ってもらうし、
鍋にこびり付いた飯粒も捨てずに、毎夕食は飯粒のついた鍋に余りモノの
野菜くずなどを入れて炊いた雑炊をいただく、のが本来の精進料理である。
ただ、現代のモノ余り社会の中で暮らしていると、なんでもかんでも
土にかえってくれるわけでもない。なんとなく心苦しいね。


周りの人に、
「こんど、エコロジーとつなげて何かできひんか、若い人らと考えてんねん。」
というと。
「似合わんな。」
といわれた。
イデオロギーで動くような人でない、と思ってた。」
と。以前の景観問題のときも、「そんなことすると思わんかった。」
そうなのだけど、
別にイデオロギーを他の人に押し付けたいからしているのではなくて、
自分の気持ちとして、何となく落葉をゴミ袋に入れるのが出来ずに、
畑に持っていっているだけなんで、こうするのがエライとか、
考えたことはない。


できれば若い人たちにも、そんな気持ちがおこるような修行をして
もらえたら、お寺としてはありがたいのだけど。


日本は多神教の国だろうし、生命の諸相、大地、水、太陽、空気、
一切合財を信仰の対象としてきたんではなかったか。
それは、地球にやさしい、というキャッチフレーズより
深いような気がしているのだが。。