禅寺小僧

日々の記です。

娑婆世界

 人にオーラというものがあるのなら、この人のまわりには放出されたオーラが燦々と漂っている。もしかしたら、それは誰もがもっているのだけど、閉じこもっていて、遮られて、表面に現れず、枯渇してゆくのではないか。そして遮るものが無かったり、希薄である人の表面からは、湧き出し、溢れつづけるものなのだ、と見つつ、感じた。その人は曹洞宗の尼僧さんの道場の道長さんで、獅子の風格を具えつつ、ゆったり、悠々、力んだところが少しもない。修行の終わった人のことを春風にたとえることがあるけれど、ぴったり、と思える。この人の前では人はあまり悪いことなど、考えたりしないのではないか。
   
 今日は茶席を懸けていただいて、茶席や帰り道でとりとめない話を、少しさせていただいた。茶席では、たまたま以前、尼僧道場で坐禅を組んでいたという人との思わぬ再会があった。そのご婦人はご主人を亡くされてから、気分が落ち込み、元気が無くなっていったところで、道長さんのところに通われて、そのうちだんだんと元気になってゆかれたのだそうだ。この人を前にしたら、悲しみにふさぎこんだ心がほどけてゆく、そんなこともあるだろう。茶の心はおもてなし、と誰かが言っていたけれど、これほど人を解けさせてくれるのも珍しい。もちろんそれは席主さんの御徳によるものだけど、点前をされている方の透明な所作も大いに作用している。所作は流儀にのっとったものだけど、深いところから流れるように湧き出してくる。茶の湯の稽古だけしたのでない、他のお茶人さんの社中にはみられない、毎日の修行に裏打ちされたものが見え隠れする。眼の前で、展げて開けられてみると、その境涯にはとてもかなわんな、と思わせられた。それでいて、
「眼の前のことに一生懸命になるのですよ。見返りや結果を、求めずに。命がけで、遊ぶのですよ。」
などとおっっしゃる。
 
 帰り道、そのお人柄に触れていたくて、外の門までお送りしつつ、
「今日はすっかりほどけてしまいました。」
とお礼を申しあげていると、
「私は海外にも行きますが、禅、茶、花を持っていきます。向こうにも日本の伝統文化を真剣に求めておられる方がいらっっしゃるのです。」
「私は外で釜を懸ける、ということはほとんど無いのですけれど、僧侶がお茶を点てる、釜を懸ける、というならば、道具茶であってはならぬ、と思っております。」
とおっしゃった。
道具茶というのは、珍しいのや高価であったりする道具を並べて、お客さんに見せてする茶会を言っておられるのだろうけど、ちょうど高価な道具は何も持っていない。けれど、道具茶というかわりに、道具を○○に置き換えてみると、その求めるべきところは、○○茶であってはならない、お茶、ということになるのだろうか?
  
 観音菩薩の化身のような、。