禅寺小僧

日々の記です。

力の根源。

 大阪市立美術館で墨跡展をやっている。墨跡っていうのは僧侶の書いた書、というぐらいの意味で、特に禅僧の書いたものをそう呼ぶらしい。中国僧のも、日本僧のもある。書き殴ることぐらいしかできない者に、鑑賞眼があるはずは無いのだけど、自身を振り返ってみて、書を見るときは、画面として、絵として見ているのではない。さらに言うと、意味とか内容もそれほど見ていないように思える。なんとなく、書いたその人の跡を追って、脈打つ命を感じようとしている。虚堂智愚禅師の筆跡を見て、なんと集中力の人だ、と思ってみたり、一休禅師の諸悪莫作の書を見ても、足腰の強い、腹ができて、腰の入った書だな、思えてならない。おそらくは骨の太い人なのではなかったか?そんなことを話すと、
「どーして、君の場合は筋力とかそんな話になるの、座禅をしておられたんですよ。その禅定力で書かれたに決まってるじゃないですか。」
 と言われてしまったけれど、一行の中で楷書から草書に至る、清清しい力強さは、現代の禅僧にはなかなか書けない。もしかしたら一人もいないのかもしれない。一休禅師の筋力や体格を口にして一笑に付されてしまったけど、若き日の禅師は荒くれに混じり、漁師の手伝いで網を引いてもらった手間賃を寺に入れていたのではなかったか。そして、京都と滋賀を往復する脚力は筆力や精神力にまで影響を与えていたのではないだろうか。その上ででの修行であればこそ、深く、力強い、坐禅であったろう。
 現代人はやはり、身体が弱くなったと思う。修行をしなくてはいけないのだけど、身体が続かないようなこともある。その分、精神力にたよるようなことがあるのじゃないか。身心一如とは言葉尻のことだけではない。精神力を担保していたのが体力だったとしたらどうなのだろうか。ハラが出来るというところのハラの筋力が、というと言いすぎなのかもしれないが、
 禅とは何か、名論卓説は尽きない。。けれど、禅っていつからこんなに難しくなってしまったのだろう。