禅寺小僧

日々の記です。

罪のむくい







ほんとはバチといっても物理的に当たるものじゃないと思うわけよ。地獄だってそう。神社のことを近隣国から指摘され自分の中に言い表すことはできない釈然としないものがあったとしたら、それがバチあたってるていうこととちゃうやろか。誰がいつ参拝するかが問題なのではなくて、ほんとうは個人個人が戦没者をどれだけ供養してきたか、ということなのだろうと思う。たった一度しか死ねない人生の最後にたらふく海水を飲まされた何千人ものことを現代において思うことがあったろうか。国際法的には戦後補償は清算されていたとしても個人的に犠牲感のないことが釈然としない一つの理由なのだろうか。