禅寺小僧

日々の記です。

事もなし。

 子供の頃だったら、葬式の帰りには喪主の挨拶状にきっと塩の小袋が添えられていて、家に入る前に玄関で、その塩を踏んで、お清めをする習慣だった。確か、お清め塩、と書かれていたのではなかったか。ところが近頃は、お清め塩が少なくなったように思う。ナゼかというと、葬式はハレとケというわけかたをすると、ケであって、ケガレの行事であった。ところが最近ではそれでは故人の遺体は穢れているのか、そうじゃないじゃないか、そんなことを言うのはケシカランということになって、清め、は行われなくなった。ということらしい。
              
 都会ではホールで葬儀をすることが多くなって、仏さんは家に帰ることなく、病院から霊安室に向われることも多くなりつつある。ドライアイスと冷蔵設備のおかげで生前のお姿のまま、葬儀にのぞまれるけれど、昔はそうではなかった。人間は死体になった途端、生物から死物に転化して、大げさにいうと音を立てて腐りはじめる。生前の面影が崩れていくと同時に、タンパク質が分解するときの、強烈な腐乱臭を撒き散らす。そんな時代には人間が死ぬことはケであって、行事にも意味があって、みんなに納得されていたのだろう。何事も現代のことに当てはめて、過去の行事を意味がない、間違っている。と断定するのは、どうだろうか。
         
 次には、何時、自分に順番が廻って来るかわからい死、恐ろしいことであったろう。そこからまた、供養ということも営まれてきたのだ、と思う。