禅寺小僧

日々の記です。

観音経2

百円ショップでお経の本を売っているらしい。各宗派あるらしい。お経もなかなかポピュラーになったものだ。去年の秋、京都国立博物館奈良時代からの写経本の展覧会があって、それぞれ毛筆で書かれている経本は見ているだけで心がなごむものだった。そのうち入手しにいこうとおもうけれど、現代では百円。ワンコインで買える身近な、気軽なものになった。過去にはお経の本を写すときには、まあ、現代の写経もそうなのだろうけど、何らかの願をかけたり、だれだれの供養のためであったりした。それがいまじゃ用がたりればそれでいい、値段が安ければ、という店で安直に買い物のついでに、おまけの様にして、ちょっとした興味半分で気晴らしとして買ってゆかれるんではないか。そしておそらく百円のお経は代々伝えられることもなく枯れ葉のように消えてゆくのかもしれない。
生活雑貨や文房具の片隅で山積みで売られるようになってありがたみも失せてしまったかのように思えるお経だけれど、やっぱりそこにはパワーがある。一昨日、ある音楽家のかたとお経をあげたのだけど、「観音経にはパワーがある」とおっしゃる。一緒にお経をあげていると彼のなかでは観音経のパワーが音楽となってダイナミックに湧き出てくるようで、そばで見させていただいているだけでいい経験をさせていただいた。
小僧さんがお経をあげると檀家さんはやっぱりものたりないらしいけれど、苦しい言い訳としては「お経自体に値打ちがあるのであって、あげている人でかわるものではありません。」といっている。「お釈迦さんの言葉自体が値打ちですから。」ということなのだけどどれだけ信用していただいているのか、わからん。観音経の冒頭は「世尊妙相具」世尊というのはお釈迦さんのこと。お釈迦さんは妙なる相をもっておられた。とやっぱりお釈迦さんは誰がみてもありがたい風貌をされていたようです。