禅寺小僧

日々の記です。

青山緑水

ぼたん

今朝、御歳を召したお茶の宗匠がいらっしゃって、お茶を一服いただけることになった。お茶人さんだけども頭も短く刈っておられて、その風貌は派手さはないけれど、年輪をじっくり重ねて松の樹がしっかりと地に足をつけたようでありながら、柔らかいくて凄みがある。応対させていただいても、宗匠のペースに引き込まれてしまって、こちらの方も物腰静かになってしまう。ぎすぎすしたところがどこにも無くて、人あたりはいたってソフトでふんわりしているのだけど、その奥に確かな厳しさを感じずにはいられない。懐に抜き身の露刃剣をしのばせていながら顔の表情は春風に吹かれている、といったふうで、人間のできていない者にとってはちょっと恐ろしい方でもあるのだけど、それでもこの人と接していたい、と思わされる。自然に頭が下ってしまう。同じ場におらせていただくのは身分不相応ということもわかっていながら、なお、そう思う。
このお方は家元ではなくてそのかたわらにいらっしゃるような方だろうかと想像するのだけれど、ご自分の場所を守って、えらそばるわけでもなく、淡々とご自分の道を精進なさっているようだ。茶席のしつらえも、淡にして枯れたといった風情だけどそこには茶の雰囲気が濃厚に漂って、圧倒される。表面にお茶の道具がならべてあるだけでなく、地味なんだけど、どこかに底があって、そこから何かが出て来たようである。宗匠がすわられると引き込まれてしまう人がやっぱり多いらしくて、お寺で何年も修行した修行僧でさえ入門してしまう。この間も知り合いの三年間も僧堂修行した者がはいってしまった。けれどお茶の修行がしたいというよりもこの宗匠につきたい、という思いが先にくるんじゃないだろうか。男惚れに惚れるのだろうか。おとなしい、ひっそりしたおじいさんで、シブイという言葉はこんな方に使うとぴったりする。日本伝統文化は廃れる一方かもしれないけれど、こんな方がこれからも沢山でてこられたらお茶の世界も隆盛するに違いない。
足元にも及ばない者がなんのかんの見当違いのことを述べ立てるのはおこがましいことだけれど、どうも宗匠の生きてゆかれかたに魅きこまれてしまう。家元ではないからメインストリートではないにしても、自分の守ってゆくべきところをしっかり守り一歩づつ積み重ねられたものには凄みもあり、かつ拒まない深さもあって、なんとも言えないオーラが出ている。私自身たまたまお寺にこさせてもらっただけで今まで本道を歩いてきたわけではないし、この世界にも素晴らしいかたが沢山おられるから後をついてゆくだけなんだけど、どこかでなにかそれなりに自分自身守るものを守って、片隅ででも生きてゆきたいものだと思っている。それで十分だと思う。