禅寺小僧

日々の記です。

僧医

アジア

昨夜「僧医」というタイトルのTV番組を見たのだけれど、
対本宗訓さんという禅宗のある派の管長さんが、なんと、40歳を超えてから
受験勉強をされて医学部に入られた。仏教界でも大変なエリートであった
方がわざわざ医学の道に入られるというのはどれほど大変なことであろうか。
お釈迦さんの時代にはもちろん、そこまでいかないにしてもほんの何十年か前まで、生老病死は人々の眼の前にあった。家で生まれて、老いてゆき、病気になって、家で死んでいっく。そういうもんだった、のが、今では、病院で生まれて、老い、病気になって、死んでいく。人生の初めと終わり、あなたがいる場所、そこは病院だ。生老病死の目前で人々の、四苦の現場に立ち会っているのはお医者さんになった。僧侶が他人の人生の節目に立ち会わない、その場に居えない、という単純で深刻な問題に日本中の僧侶が直面しているわけだけど、もっとも直接かつ先進的に対応されたのが、僧医となられた対本さんだった。

同じ一人に人間のなかで、眼に見える体には医者がアプローチして、眼に見えない心に寄り添うのは僧侶と、同じ一人の患者の体と心の悩みを全く別々のところから援護してゆくのが現代のやり方だし、昔より進んだやり方なのだろうけれど、もしそれが同じ人物のなかからでてきたとしたら、仏教はもちろん医学のほうもより患者の為にたよりになるものになるのではないか、とシロウトながら考える。科学技術の発達した現代により現実的にマッチしたものになるのじゃないだろうか。僧医となるひとがこれからもっとでてきたら。けれども自分自身を考えてみても医学部に入れるほどの知的レベルはどこにも持ち合わせていない。探せば僧侶の中にも優秀な人はおられるのだろうけれど、実際に思い切って医学部を受験する人がどれだけいるだろう。対本さんの医学を学ぶことを通して得られる新しい人間観が今後の仏教を発展させるだろうことを期待し、医療を受けられ死に臨まれる患者さんの心の平安に結びつくことを願う。
 
僧侶が医者になる、というのは僧侶自身にとっても面白いことだろうけれど、難しい。それだったら医者が僧侶になるのは?案外いけるのでは、とも思うけれど、現実にインテリのお医者さんには坊主の世界はたいして魅力的に映らないだろうかな、ともおもう。医学は最先端だから。中学時代の親友が外科医になったけれど、その同僚が「俺のココロのケアもなんとかしてくれ、」と言っていた。けれど、お医者さんと話するには薪割ったり、畑の土をさわって喜んでいるようなのとは知的レベルがどうしてもあわない。僧医にはなれないにしてもココロのケアさえ精神科の医者でないと対応できないくらいに現代の社会は複雑化している。

ケースワーカーが虐待されている子供を救うために子供の自宅を訪問して保護する。世の中には悪いことが多すぎて、ケースワーカーが苦労惨憺、やっとの思いで一人の子供を一時的に保護したとしても、見渡す限り広大な砂浜で砂をすくっては指の間からこぼれおちていくようなものかもしれない。けれど彼女は信念をもってする。自分の立場をわきまえて、仕事をとおして、自分と社会とをたとえ僅かであったとしてもよくしてゆこうとする行為と努力と姿勢の中にどこか宗教的なものを感じてしまうのは、一人だけだろうか。真に宗教的なものは現代社会のどこにある?