生ける、花
花をならうことにした。文人花とかいう名前がついてるみたいで、
私の先生になる人のお師匠さんは京都の高級旅館なんぞへも
活けにゆかれるらしい。自分のことを振り返ってみると、文人とは
まったく逆、のような性格と生活なんで、ウーンとかんがえこんでしまうんだけど
軽い気持ちではじめることにした。生け花はしらないけれど、もともと
花そのものは好きだし。イガイなことに高校のときは花屋でバイトしてたこともある。
今は菜種梅雨で、菜の花畑全体を花瓶と見立ててもらえば、空からはシトシト雨も
そそいで、風情のあること、この上ない。けれども畑の前で立ち止まって眺めてる人は
おらんわねえ。いはるとしたら、「花なんか咲かせはって、、」ときこえてきそうだ。
私としては、菜の花が好きだし、種もとりたいし、ぬいてしまうのが、
自分としてはもったいないんだよね。枯れてゆくのを眺めるのも大好きだしな。
文人だったら漢詩なぞにも造詣が深いんだろうが、まったくアカンからおいおい
やってことにする。本来は詩情のある花なんだろうね。今の私の段階では、
花が咲いててうれしいな、という気分です。昔からそうだけど。
そんなわけで昨日の座禅会は朝から掃除ばかりして、花をいれて、お茶を点てて、
飲んだ。そんな日もある。井戸水をくんで掃除しても静か、花を挿そうとしても
どこかに咲いている。一畳何万エンもだして借りておられる人にすれば、何もお金を
かけずにこんなことができるのはなんとも羨ましいらしい。これだけのことを自分で
しようとしたら、いったいいくらお金がかかるだろうか。というのである。
というより不可能だ、というのだけれど。昔からあるこういうところだと、
普段の生活がそのまま、文人の詩情にそぐうのかもしれない。
実際には文人が住んでいるのではないのだけれど、役にたたないから寺はいらん、
過去の遺物で社会の邪魔、というばかりでなくて、いい面もみていかなくては、
と思う。現在、いったい日本中にいくつお寺があるだろうか。
地域ごとにそれぞれのお寺に人が集まれば、人間の楽しみが増えそうな気がする、
のは俺だけだろうか。
せ。
そうそう、きのう大文字山に登ってきた。(右)
気温17度c、人でいっぱいだった。