禅寺小僧

日々の記です。

犬を連れての夜の散歩










大通りを越えて公園に行ってみた。こんどの週末に花見をしようかと思っ
て。去年は京都の桜を見れなかった。つぼみの頃に京都を出て、戻ってき
たころにはもう葉桜になっていたから。この前、かたずけを手伝っていた
お寺のお弟子さんと話したら、桜の苗木を100本いただいたんですよ、
と言っていた。桜って一本でも大っきいなるぞ。100本ってどうすんの
?そこのお寺は幼稚園もされているお寺なんだけど、場所がないんで道沿
い植えることにするのだと。将来立派な花を咲かせるのだろうな。川があ
って、田んぼがあって、土手に植わっている桜が咲いてるのを、すこし遠
くから眺めるのが好きで、そんな頃には、土筆、蕗、木の芽、スカンポ,ノ
ビルあたりが顔を出しているにちがいない。田舎の川の土手にも春はやっ
ってくる。














さて、眼の前の公園の桜なんだが、、。
あんまりたいした樹がない。
ちいさいのが多いし、数もすくなく、かつては精力を誇っていたことがあ
ったのかもしれないけれど、いまはウロになった胴体にちょっとだけちい
さい枝をつけているだけみたいなのがちらほら。自然のまま、ほったらか
しで、樫の樹の大きなのはいっぱいあるのだけど、肝心の桜の樹はあんま
りない。頂上の広場もそうだった。実は今度は幹事さんをするのだな。花
見の幹事さんの悩みは深い。なんせ桜はあっという間に咲いて、散ってし
まうからな。人気の場所は人で込むし、空いていそうなところにはいい桜
がない。酒呑みの親友とはいつもここで、充分なのだけど、何人か集まる
となると、エッ、桜が無いじゃないですか、と言われそうで怖い。花見っ
ていうと桜の樹がバーッとひろがっているようなイメージがあるからな。












公園の中の野外円形劇場の周りに近所の大学生があつまって、歌ったり、
話したりしている。枝いっぱいに白い花のかたまりをぶら下げて咲き誇る
、漫々たるソメイヨシノが立っている。葉を出すのと同時に花を散りばめ
たらしい山桜も立っている。スッと伸ばした枝が美しい。細くてもしっか
りした力を内に秘めているようにも見える。けれど、ソメイヨシノの叫ぶ
ような、大観衆の大声援を想わす、意志ある圧倒的な絢爛さを見せびらか
されると、山桜なんてこの樹は咲いてないのとちゃう?枯れてんのかな、
ぐらいの目立たなさなんだな。鴨川の堤防ぞいをバイクで走れば、桜並木
が延々とつづいている。通る人はみんな眼をやる。心を奪われて歩いてい
る人もある。ソメイヨシノは都市の機能なんだと思う。都市生活者が眼で
新しい季節を感じて、平坦な日常の句読点として集団で熱狂する劇場みた
いな。心を咲き誇る花に預けて、また消えてゆく。やがて日常に埋没して
いって、葉桜の頃にはもうその樹が桜であったころすら忘れてしまう。
私を見て!見て!若くて明るく飾りたてた華やかさも、やがては雑踏の中
に溶けこんでいって、消えてしまう。




山桜はまあ、昔なじみの友達ってとこか。
樹の下で、今までのこととか、これからのこととか語る。
春になったし種播かなあかんな。







ひとに知られでくるよしもがな











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