禅寺小僧

日々の記です。

hekigyokuan2005-01-30

 座禅会のメンバーと丘は船岡山に登る。
岡は船岡だったかな。小雪がちらついたけれど
それでも清々しい散歩になった。
京都市は法律に基づいて建築の確認をしたけれど、
建築すべきでない、と思っている多数の市民が
何故、そうなのか、という資料なり、説明なりを
はっきり出来なかったのが口惜しい。
けれど、山頂からの眺めは素晴しかったよ。
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 一日中バタバタした日だったけど、夜、嘗ての修行時代の
先輩と話す。そのひとが「禅の修行というものは、ゼロか百だ。」
というようなことをいわれた。
私の修行がなってないので、ゼロだ。という意味だったのかも
しれないけれど、自分のことに当てはめてみるとそんなふうにも
思えなかった。
公案という禅問答を師匠から与えられえて修行するのだけれど、
この禅問答の数がいったいいくつあるのかわからないくらいに
ある。ふつう私のように出来の悪い人間は当然のこととして、
禅問答をすべて終えることなど不可能である。
けれど、全部おえないと偉い和尚さんにはなれい、ということらしい。
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 私の公案はなかなか透らない。要領よく、ドンドン数をこなしていく人もいる。
たとえ数は少なくても、自分にとって本当に合う、これだ、と
いえるものに出会えればそれでいい、と私は思う。
たとえたった一つの禅問答であったとしても、心の奥底から
付き合えればそのとき、問答はゼロじゃなくて百になる。
たぶん私たちの身の回りにはなかなか透らない人生の問答がごろごろ
している。もし、それから逃げてしまったり、自分の奥底から
付き合えなかったとしたら、問答自体がいくらいいものでも
自分にとっては、ゼロの値打ちもない。
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 自分の取り組みかたしだいで一つの人生の果実ははゼロにもなるし、
百にもなる。数だけこなせば偉いということもない。
誰に評価してもらうわけでもなく自分の心のなかのことだから。
禅の修行はゼロか百、という言葉は私にはそう聞こえる。
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せ。