禅寺小僧

日々の記です。

hekigyokuan2005-01-12

禅の世界に初めて足を踏み入れたのは15歳の頃、
高校一年の夏休み前だった。
体を壊してしまってなんだかお先真っ暗な思いになって。
実家近くのそれこそ河の傍の寺だったのだけど、その時
その寺の老師は素寒貧の少年に声をかけてくださった。
その時の二言三言が耳の後ろにこびりついていて、
それから10年後にとうとう修行道場に入ってしまった
けれど、あんがいあの時、老師には何かを見透かされて
いたんだろうか。他の人もいる中で、板の間に座られた老師が
高校生の私に話しかけられる、今想い出してもなんだか、
空白なような、充実しているような、
いまだに不思議な時間だった。
老師が言わんとするところを、はっきりと見て取れなかったのだと思う。
けれど、その中に当時の私にとって大切なものが示されていたから、
その時のことが心のどこかに引っ掛かりつづけた、のだろう。
もし、老師が今も生きておられて20年前のことを告白したら
何とおっしゃるのだろう。笑ってくださるんだろうか?


 臨済録に「仏法を学するものは、しばらく真正の見解を求めん
ことを要す」とある。正しい見地をつかむことが大切だ、というのだ。
そしてそのためには「人惑を受けざらんことを要す。」とある。
文字や人の言葉に騙されてはいけない。ということ。
そして、正しい見地が得られないのは、自信がないことから
来ている。という。自信がないから忙しくバタバタ動きまわらされて
自由も得れない。自信がないから外に向かって何かを求める。
得るものを得れば一生無事の人だ、と臨済禅師はいう。

せ。