禅寺小僧

日々の記です。

後味

水のみ場

料理の番組の取材で来客があった。
いわゆる料理番組じゃなくて、
歴史と発展みたいなのをやるのかなあ。
あちこちで取材するらしいけど京都編は
懐石料理なんだそうだ。
ちなみに私は駐車場を提供しただけで、
TVに出たり、料理をしているわけではありません。。念のタメ。
女性ディレクター氏の意見では、懐石は
お膳の上にドバッと料理を全部ならべる形式から、
発展して、一品づつ出すようになったんそうだ。
それも最後に、お茶を一服飲むタメの料理なんだという。
お茶を飲むタメの食事。
TVでは最後にお茶のシーンがでてくるんだろな。
たぶんこれが目的です、といわんばかりに
デカデカとお茶が映るんでしょう。

しかし、なんだか俺にはそうは思えないところがあって、
ホンの少しづつの料理が一品づつ出てくるのは
一つづつ、ジックリ大切にするからなんじゃないのかね。
茶席がほの暗くて、お互いペラペラ喋ったりしないのも。
量が少なくて満腹しないのも、お茶を飲むタメだけじゃないだろうし
最後のお茶だって目的じゃなくて、締めくくりなんじゃないか。

出会いがない、という人は多いし
何に対してであれ、出会いを求めてる時代なのかな。
人に言わせると俺は
過去のことばかり憶い出してる、ヤツなのらしいけど。
出会いよりは別れのほうに興味があって、
別れの余韻を楽しんでいる。

人だって、料理だって
余韻というのはアタマで考えてるんじゃなくて
カラダで感じるほうが多いのでは、ないかな。
あったかい、スッキリした、心地よかった、イヤだった。
なんとなく、もう一度会いたい、とか
もう、コリゴリとか。
満腹してしたら、満足してしまって
もう必要ないだろう。
自分にとって大切かどうかは
アタマで考えるのはもちろんだけど、
後味を参考にするのも結構いいんじゃないか、
と思ってる。
あんがい正直な気持ちがでているんではないかな。

料理を食べるってことは、口に入れて
出合った瞬間にもう別れているんじゃないか?
料理を作ることはクリエイティブなことだけど、
食べてしまったら何も残らない、ところが、いい。
モノはどこにも残らないけれど、
どこかに、ささやかでも、
消えつつある余韻を残した出会いはあったろうか?
一生に一度でもそんな邂逅があれば。



せ。