禅寺小僧

日々の記です。

座禅会をはじめたころ

hekigyokuan2004-11-20

振りかえってみて、いまの自分に影響を与えた
ものはいくつもあって、絡み合っているけれど、
そのうちの一つが座禅修行だったし、いまだに
それについて考えている。

お釈迦さんは今のネパールにあった釈迦国の王子
であったらしいのが、感ずるところあって、城をでて
修行の道を選ばれたという。最初、6年間は苦行をされた。
苦行、つまり身体を、痛めつけたり、渇えさせたり、
飢えさせたりされた。その根底には身体を痛めつければ
身体が弱って、そのぶん精神が向上する、という考えかたが
あったんだ。当時のインドではそんな修行をしていたひとが
たくさんいたらしい。6年間そんなことをつづけられてから
それだけではどうもイカンと思われて、河で沐浴し、
村娘のスジャータから乳粥をもらって、菩提樹のしたで
瞑想、つまり座禅して悟りにいたられた。そうだ。

達磨大師はインドから中国に渡り、少林寺
9年間も岩窟にこもってひたすら座禅をつづけられた。

その行履をホンの少しだけ、
我々は辿らせていただいているわけだけど
二つの故事からごくごく大雑把にいって
ジタバタしてもアカンということもあるんじゃないだろうか。
もちろん、ジタバタせなあかん、そうでないことも多いのだろうけれども。
お釈迦さんだって落ち着いていまある自分を見つめられたのだし、
達磨大師だってそう。いまある我々だって。
自分の心の中にあるわだかまりが、たとえ心臓を突き抜け、
肝を破るようなものであったとしても、焦燥感の火であぶりつづけられて、
その真っ只中でもがいているだけだと、
周りや自分自身を傷つけるだけだ。
けれど、その真っ只中から少し離れてみつめなおしたら
なんとなく、これまで絶大に感じられてたものが案外
ささいで、ちっぽけなものに見える瞬間、
とうとう事実を事実そのままに自分の中に受け入れる時
が来るんじゃないだろうか。
自分自身のすべてを、受け入れるときが。
そこから、もう一度立ち上がるのだし、
これでやっていくしかない、というゆるがない覚悟もできる。

そんな瞬間がないか?



せ。