禅寺小僧

日々の記です。

禅の修行とは











修行道場に入って、そこで生活すればいい。難しいことを考えなくても、そのまま仏教の修行になる。そんな生活をつづけてゆくと、誰でも、やっぱりなんか落ち着いてきますよね、って言う。ただ、ちよっと時間はかかるので、一週間で、とかいうわけにはなかなかいかない。身についてくるにはやっぱり年単位の時間がかかる。


インドから中国にやってきた達磨さんは壁にむかって独り坐禅された。九年間も。達磨さんのような宗教的天才でも九年もの修行をされるのだ。凡人には独りでやるそんなエネルギーも堅い意志のつづく時間もひねり出せない。どうするのかというと、修行者同士で集まる。独りで何もかもすると衣食住だけで一日の時間がなくなって、修行の時間なんてとれなくなるから、共同生活の役割分担で時間を節約し、坐禅する時間をつくる。現実世界ではそうでもしないと、生活のことに時間がかかってしまって、坐禅するという、何もしない贅沢な時間はなかなかつくれないのだ。そして人の心は弱いから、自分一人で修行に励むことも難しい。修行仲間や先輩の、誰かの眼があるほうがいい。偉い坊さんは独りで山に入って修行されたとかいうけれど、凡人にはまず、無理だな。

















仏教学者の方のお話を伺った。
現実を受け入れる苦しみが人々を宗教へ向かわせる。その世界を信じる人々には本当に幸せが訪れる、キリスト教イスラム教は祈りの宗教だ。仏教は生老病死を受け入れつつ苦しみを生まないものの見方、世界観を自己鍛錬のシステムである。自分の外側に我々を救ってくれるものをがあると信じなくても、すがるものがなくても、生老病死の苦しみを越えれますか、ということ。だから修行をするためのサンガが必要だ。そのサンガを修行する道場を今に伝えているのは、日本の仏教では禅宗だけですよ。責任は重大ですよ。自殺する人がたくさんいる時代ですが、自分と世間があわずに我慢して生きている人たちが、世間を離れて自殺する代わりに、出家できるような仏教サンガでなくてはなりませんん、とのこと。


だけど現実は、修行道場に入ったらまず自由時間もプライバシーも全くなし。ストレスは世間よりもたっぷり、理不尽もたっぷり。その中で苦を乗り越えてゆく。日本の仏教は歴史をへてそんな今の姿がある。古代インドの仏教から変化しているのは確かだ。でもいまさらどうしましょう。















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