禅寺小僧

日々の記です。

達磨安心










達磨面壁す
二祖雪に立つ
臂を断つて云く、弟子、心いまだ安らかならず
乞う、師安心せしめよ
磨云く、心を将(も)ち来たれ、汝が為に安んぜん
祖云く、心をもとむるに了(つ)いに不可得
磨云く、汝が為に安心し竟(おわ)んぬ














壁に向かって、達磨は座禅しつづけている


雪の中に立ち尽くしている慧可は
腕を切り落として言った
弟子の心は未だに安らかではありません
どうか師よ安心させてください


達磨はこう言った
心を持ってきたら お前のために安らかにしてやろう


慧可は言った
心を求めましたが とうとう掴めませんでした


達磨は言う
お前のために こころを安らかにしたぞ















洞窟で向こうをむいて座禅する達磨と、意を決して切り落とした血の滴る自分の左腕を持つ慧可。雪舟の画を見たとき、巨大な画面に驚いた。求道のために腕を切り落とすのからして、ふつうじゃない。腕を傷つけるのではなくて切り落としてしまうのだから、思い切りぶりが凄い。雪舟の画も、おどろおどろしいちょっと漫画チックな感じもする不思議な画だった。達磨安心の話はインドからやってきた、印度人の達磨から中国人の慧可に禅が伝わる機縁だから大切な話だ。















この話は心というのは捕えられないものであるとか、不安などというものは実体のあるものではなく、自分の心が作り出した幻影なのである、というように語られることが多い。だけどこの話を聞いて思うのは、心を安らかにするのは、悟るのは、安心を得るのは、自分自身ですることなんだぞ、と言っているような気がしてならない。心を求めても得ることができませんでしたと言うのは慧可の本心だろう。自分の心といっても自分自身でどうしようもない、むしろ毎日いつも心に自分自身が振り回される、そんなもんだ。掴みどころなんかありまへん。身の回りにおこってる自分の人生と言ったってそれとおんなじで、もうありとあらゆる縁のつながりでできているものだから、もう自分自身でどうのこうのとできることはほんの僅かなもの、大きい眼でみたらほとんど無いようなものにも見える。自分の子供だって親の思う通りには動いてくれないけれど、「自分の」と思うところが間違いのはじまり。自分の思いどおりになんてまったくない。できることと言えば、まあ傍からじっくりあせらず見守ってやることぐらいで、子供自身が自分で苦労して切り拓いてゆくほかない。自分の中にいいところを見つけるのは自分自身だ。その流れを受け入れることができたら、それが親にとっての安心だ。他の子供と比べて遅れてるとか出来がどうのこうのと思うのが迷いや焦りのはじまりだわな。そんな不安は子供の心にも伝わってしまう。この子はこの子と親も受け入れてまかせていければいいのですけどね。















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