禅寺小僧

日々の記です。

死ぬ時節



仏教って響きには何か説教くさいものだけど、
それだけではなく、もっと、大らかでゆったりした思想でもある。


「寒暑到来すれば如何に回避せん。」
「何ぞ寒暑無き処に去かざる。」


「十五日已然は汝に問わず、
十五日已後、一句をいいもち来たれ。」
「日々是好日。」  (毎日毎日がエエ日やね。)


などなど、あれはしたらイカン、どうしなアカン、という
ような道徳っぽさから離れている気概を感じないか。


越後の三条に文政の頃大地震があり、
良寛さんが山田杜皐(とこう)さんへ出したお見舞状が残っている。


地震は信に大変に候。
野僧草庵何事なく候。
親類中、死人もなくめで度存候。
   うちつけに 死なば 死なずて 存えて
   かかる憂き目を 見るがわびしき
しかし災難は逢時節には災難に逢ふがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候。
是はこれ災難を逃るる妙法にて候。
          かしこ
     良寛
 

このような手紙なんだけど、先生からは、
「いくら良寛さんでもこれは失敗だ。
災難に逢って悲嘆にくれている人にむかってこれは失礼だ。」
ときかされたが。


言葉って難しいなと、思うこと、普段からしきりなんだが、
昔の人の言ったこと、書いた言葉でも、
自分自身に言い聞かせた言葉であるのか、
それとも誰かに言った言葉であるのか、
その相手はどんな人だったかによって
言葉の持つ意味合いはかなり変わってくる。


災難につづいて死ぬ時節が出てくるが
この時、山田さんは末っ子を地震でなくされている。
山田さんも俳人で、二人は長いつきあいであったろうし、
この手紙も残っているぐらいだから、決して悪い気はしなかったはずで、
むしろ安堵したり、励まされたのではなかったろうか。


良いことばかりではないこの世の中で、見舞い状の中で
良寛さんは、自分自身の心中を吐露されたように見えるのだが。