禅寺小僧

日々の記です。

災難にあう



小雨になって、
「こんどお彼岸で何か話せんなんのやけど、
なんにも思いうかばんなあ。なんか聞きたい話ないかいな。」
「自由の話でエエやないか。」Parts氏が言ってくれる。


自分本意に、欲望のまま、まわりに左右されずにやる、という
のが今みんなが思ってる自由で、フリーダム、リバティの訳語
である。意味としては「何々から自由」ということで、奴隷と
して主人に仕えているとしたら、そういう立場から離れる、と
いうようなこと。勉強するのがイヤやったら、そこから離れる、
というようなことである。


明治時代に西洋の自由が日本に入ってきたときに、あてはまる
言葉がなかったので、もともとあった仏教語の自由をそのとき
借りてきてあてはめた。ではもともとの仏教での自由はどうい
う意味であったのだろうか。自は「おのずから」由は由緒、経由、
理由、由来というように使われるように、「何々から出てくる」
というような意味であるから、自ずから出てくるもの、だから、
「何々からの自由」というのがわりと他律的、消極的であるのに対し、
自立的、積極的な響きがありますわな。


ちなみに「自然」もネイチャーの訳語であって、親鸞自然法爾と
いったように、自然も「自ら然る」ということであった。