禅寺小僧

日々の記です。

輪廻とリサイクル

hekigyokuan2005-08-15

リサイクルという言葉を暫く眺めていると、parts氏のおっしゃるように輪廻といいかえてもいいような気がしてきます。モノが死んでバラバラになって、また別の形の新しいものになってゆく。世の中の全てのものは生まれては死に、死んでは生まれ、なんどでも生まれ変わる。それで現在があるんでしょうが。





ご存知のとおり、ヨーロッパではあまり輪廻というようなことは言いませんで、だったらどうなんか、というなすと、死ぬと最後の審判がありまして、そこで天国行きか、地獄行きかが決まるわけです。そこまではアジアの仏教圏でもにたようなものなんですけど、違うのは天国にいったら最後ズーッと永遠に天国に暮らすことになるこで、もし地獄にいってしまった場合もこれまた永遠に地獄暮らしです。あの世からは戻ってもこれないし、生まれ変わることも出来ません。確か、そうでしたよね?





仏教の場合は天国やら地獄やらをグルグル廻って、またこの世に生まれ変わります。そこが違うところなんだけど、現在の日本は科学の時代で、科学の特徴は「眼で見える」ものを扱うというところが特徴なんじゃないだろうか。リサイクルの場合はまさにそうですな。ばらばらの分子レベルの話やから。けれど、宗教の場合は眼で見えない部分の話も含んでいて、自分の持っている心とか、人格とか、これは眼には見えないわな。眼の前にいる人が何を思っているのか、こっちには見えないし、死んでしまった人を焼いた骨を身に付けたとしても、それが故人の人格ではないわな。その人があなたにとって、どんな人だったかはそれぞれの心の中にだけあるわけだから。生命とか心とかはもちろん肉体の中にあるわけだけど、残念なことに身体と心は一枚の紙の表と裏みたいなものでどちらか一方だけを切り離して取りだせない。生死とひっついているから。牛肉のカタマリを買ってきて、心だけ取り出そうとしても無理だしな。眼にも見えない。眼に見えないものは存在しない、と認識する。それが現代の感性だろうし。





今はお盆の終盤だけど、お盆の間は御先祖さんが家に帰ってきたはる。魚とりとか、虫とりとかの殺生はしたらアカン。と子供の頃いわれたけれど、今でもそうなんでしょうか。眼に見えない御先祖さんが帰ったはる感覚というのはこの先どうなんだろうか。あの人は死んでしまったけれど、身近にある。という感覚はありますか。心でつながっているというか。憶ったり。いくらココロで思っている、つながっているよ、。言ったって、現実にそばに居なかったら思っていないのと同んなじだ。と言ったあなたのことがよぎるけれど。





せ。