禅寺小僧

日々の記です。

その2

hekigyokuan2006-11-01

幕末の幕府家臣として、また明治時代の政治家として知られている
山岡鉄舟は剣豪としても、書家としても知られていますが、幕府軍
官軍の戦闘で江戸の街が焼け野原になるのを避けるため、江戸無血
開城を決した勝海舟西郷隆盛の会談に先立って、官軍の駐留する
駿府にたどり着いた山岡は、単身で西郷と面会しました。このとき、
官軍が警備する中を
                     
「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と
                      
大音声で堂々と歩行していったといいいます。西郷との談判において
江戸開城の基本条件について合意を取り付けることに成功しましたが、
その行動力は、西郷隆盛をして
                
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命も
いらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し
遂げられない」
                  
と賞賛させました。
                        
 その山岡鉄舟をかこんで神仏を敬うことについて話していたとき
のこと、聴いていた一人が、
                      
「俺は毎日神社の祠に立小便をしてるが、今まで一度も罰があたったことがない。」
                
と豪語したところ、間髪をいれず鉄舟は、
                      
「だから毎日畜生道に落ちている。」
                     
と言いました。鉄舟にとって畜生道は死んでから行く世界のことで
はなくて、いま生活しているこの世界にある自分自身の心のことだ
ったのです。人間道に生まれていながら、獣の心で祠に立小便をす
ること自体が、そのまま、畜生道の行いです。バチというものは、
親の因果が子に廻る、ような時間をおいた悠長なものではなくて、
その場、その場で自分の心に響いてきます。悪いことをするとき、
自分では、「これは楽しいことだ。」と思い込もうとしても、自分
の心の奥底では、影のように、澱のように、地獄道、餓鬼道、畜生道
の暗さが、確実に溜まってゆきます。
               
仏教の倫理は、具体的な行為を挙げて「これをしろ」「あれをするな」
とは説くのではなくて、各人がそれぞれに真に「心の平安」を求める
宗教的良心に立ち戻って自主的に判断することを求め、「後悔しない」
行いをせよ、と勧めているのです。
                        
                  
                              
                        
たまにはこんなのも書いてます。提出用やしちょっと固めですな。