禅寺小僧

日々の記です。

このたびの長旅

 京都を出て琵琶湖西岸を北上しつつ日本海へゆき、丸岡によって富山県に入る。山奥に入ってしばらく過ごし、再び日本海に戻り、親不知あたりを走って、長野へゆく。妙高高原あたりで霧の中、針のように細い雨がチラチラしている。霧にあたり一体を包まれて湿っぽい細雨に打たれていると、来たんだ、旅しているんだ、と思えてくる。幾日も雨の中、走り続けた過去を憶いだしてしまうせいで、にやけてしまう。知らん人が見たら変人にみえるんとちゃうやろか。そのころは辛かった道であっても、今走ってみると、なんとなくその頃のことが思い出されて懐かしく、嬉しく思えることがあなたにも、あるのじゃ?雨に濡れてヨロこんでるってのも、、、微笑ましい、、ことないか。その後、秩父でばらく、人にあったり、仕事したりで、山梨によって、あとは高速を飛んで、新しくなって帰ってきました。
 京都に帰ってきたら、中学生が5人、チャレンジ体験というので寺に来ていて、彼らと本堂の扉の桟を拭いたり、座禅をしたり、お経を読んだり、こっちが彼らに付き合ったのか、彼らがこっちにつきあってもらったのか、わからないようなことをしてた。どうもいろんな職業を体験するという授業のようで、クラスメートはいろんなところに行っているらしい。聞いてみると、第一希望がお寺できました。というのは一人もいなくて、あちこち落選したあげくに寺にたどりついたらしい。ココロから、ごくろうさん!!と言いたいね。で、一日付き合ってもらってわかったのは、中学生が集中して取り組みやすそうなのは、掃除よりも座禅やお経で、とりわけお経は何故だか神妙にやっていたな。生活の中で宗教とも死とももちろん御先祖さんとも無縁、と言い切る彼らに、宗教にかかわるものの端くれとしてどんなメッセージがあるのだろうか。縁なき衆生は度し難し。といって宗教の世界に入ってこない人は救われませんよ。というのが在来の仏教布教の立場であるのだろうけれど、ここら辺で誰か、宗教を科学的に説明、証明してくれないものか。胡散臭い説明ではなくて。中学生を目の前にしてそう思う。