禅寺小僧

日々の記です。

かなしみ

 距離的なはなしでは大悲の寺は人ごみと人いきれでごった返す有名な観光地の近くにあるのだけど、橋からは歩いてゆくか、自転車か、バイクでゆくしか手がない。車が通れる道はついていない。川ぞいに歩いていって、最後はさらにそこから急坂を登らないとたどりつけないので、よっぽどの人でないと訪れたりしない。あちこちをまわらないと気がすまないような、走りながら花を看るような観光客には、無縁の人外境であり、塵外境である。訪れた人で本尊さんに何かしらん手を合わしておられるのは、幼稚園時代に仏教に触れた、とか、おばあちゃんがお寺参りをしていた、とか、近親者が京都が好きだった、とかいう人が多いよ、と和尚さんに告げられる。人間いくつになっても、賢くなったように思っていても、やっぱり子供のころの何かしらの記憶には絶大なものがあるんじゃないか、と思っている。ふとした瞬間に、知らずしらずのうち、忘れたような何十年も前の記憶がなんの前触れもなくアタマをもたげる、ということはないだろうか。自分の意思とか、努力とかを凌駕した有無を言わせない力が、ないか。ということ。
 
 この夏、神社に参拝するのが話題になり、ニュースでも速報のように伝えられ、それに呼応した反応が海外からもあった。たった一人の人間が神社に行った、という事実がひきおこした反応は結構大きかったような気がした。