禅寺小僧

日々の記です。

世の中は紅葉モミジというけれど。




 自分自身を振り返り、見つめてみてもあまり褒められたものでもないし、昔からそんなふうに思われたこともなった。ただ、表面的にはそうだとしても、どこか深いところには宗教心が眠っているのではないか、と思う。いちおう、宗教人。といったところかネ。そんなもんで参拝のときにはあちこちから世間話として話を持ちかけられたけれど、その内の一人に「メディアが騒ぎすぎる。」という意見があった。その時思ったのは、確かにメディアもそうかもしれないけれど普通の人々もまたそうなのではないか、ということだった。何かしら心のどこかにひっかかるような人が多いのだろうか。前に長々と映画の話を書いたけれど、主人公が有色人種差別をはじめたキッカケが、自分の父親の食卓でのささいな一言から始まったことに気がついたように、われわれも、気がつかないまでも、いつの間にか、近親者からか、メディアからか、そっと無意識のうちに何らかの価値観を注入されてやしないか。だからこそ国内、国外のメディアが騒ぎ立て、普段は黙ったままの人も何かしら言いたくなったり、ということなのでは、と思ってしまう。心の世界は深く、どうしようもなく、突然に感情がほとばしったり、そのことで振り回されて大切な何かを失ってしまったり、なってことがあったことだろう。そのことを指してお経ではバチがアタルといってるのではないか。現代は神も仏も無い時代であるから、神仏が与えるバチもまた無くなってしまったようであるけれど、知らないうちに自分のこころに振り回されて、ということならバチがあたっている、とも言えるのだろうか。
       
 さて、蔑みと差別という歴史は強者が弱者を差別するというように受け取られているけれど、そして特定の病気に罹った人々を隔離して、人道的ではない差別的な生活を強要したりしたわけだけど、差別という態度の裏側には、差別する側の恐怖という隠れた感情がどこかにないか。例えば病気だったら病気そのものに対する恐怖が。そして恐怖という感情が裏側に出ると全く逆に信仰という態度になる。有難いのは遠国の僧侶で、頼りになるのは地侍、とか言ったと思うが、尊敬なり崇拝、信仰がどこからくるのかということを簡単に言っていると思う。遠くから来た異質なもの。これが尊敬に値するのでありつつ、同時に差別されることにも結びついているのである。そのことは尊敬されたり、蔑まれたりしている僧侶を見ていればよくわかる。