禅寺小僧

日々の記です。

怖ろしさ





地球にやさしいっていうのが合言葉だし、自然というと
やさしいイメージで語られることが多い。けれど、一人
で自然の中に入っていって、しかも太陽が沈んで電灯の
ない夜になると、心細さと怖ろしさとが自分の中にひし
めいて頭をもたげる。小心者なんだ。山に入り込んであ
ちこち歩き回り、自然が好きだった子供だったけれど、
父に教えられたのは、山っていうのは怖いもんや、怖さ
をわからんとあかん。ということだった。そのせいで小
心者になったのかもしれん。大津から瀬田をこえて、宇
治川ラインまわりで夜中に帰ってくると、明かりはバイ
クのライトの照らすところだけで、左右からせまる渓谷
に押しつぶされそうで、夜の風にさらされた背中がゾッと
する。なかなか怖いよ。


超音波撮影でする胎児のビジュアル化も、とどのつまり
人間の欲なんだとおもう。そら誰でも見えないものを見
たいわな。現代は科学の時代だんだし、科学はレントゲンの
ように見えないものでも視覚化したがる。東洋医学だと
気の流れがどう、とかいうのと対照的であるな。


このあいだ、禅ワークショップって一体何がしたいんや、
と聞かれたけれど、伝統的にはとにかく座禅というのは
ありがたいものであるから、ごちゃごちゃいわんとだまって
じっと座っておればエエのや。というのが今までの指導で
あっただろうけれど、もうちょっとどういいのか、もしくは
たいしてよくないのか、を考えたかった。


目に見えない神仏を敬い、礼拝するのが宗教だとおもうけれど、
この時代は目に見えるものを信じたい時代、なんではあるまいか。
目に見えるものは信じるが、目に見えないものを恐れ、敬うこと
は減ったのではあるまいか。自然を恐れ、敬っていたころには
地球にやさしい、なんてキャッチフレーズはでてこなかったのでは
なかったか。生命の神秘という言葉が生きていた頃は、眼に見えない
ものを恐れ、敬う心が生き生きとしていたのではなかったか。
生命の本質にかかわる部分には、眼で見えるというだけでは
はかれないものがあるような気がするんだが。