禅寺小僧

日々の記です。

石上栽花生涯春

 生きているだけでなんとなくうれしいのが、いいんだ。と書いたら何をノーテンキな、とお叱り?をうけてしまった。しかしだね、新車を買ってうれしい、おいしいものを食べてうれしい、恋人ができてうれしい、なんていうのは身の回りに溢れていて、それはそれで結構なんだけど、同時に少しでも辛いこと苦しいことがあると、身の回りの結構なことよりも苦しいことは引力がつよくて、人生全体が辛くなってしまう。他にいいことがいっぱいあるにもかかわらず。どれだけ世の中にモノが増えようが(経済学ではモノが増えると幸せも増えるという仮定になってるが)なかなか機嫌よく生きられない人がいるのにはこんな心の構造にも原因があるんじゃないだろうか。とも思う。       
         
 司馬遼太郎週刊朝日の連載記事のために寺に来たとき、石上栽花生涯春という昔の言葉をひいて、通常は考えられない石の上に花を栽えるなんてことが起こることがあって、そうすれば一生涯が春の中にいるようだ。ということを言っておられる。反語的にめったにそういうことにはならないんだということを言っておられるのだろうけれど。けれど、物質的に貧しい時代や国でも生涯の春のなかに暮らしている人も多い。何が無くてもへこたれず、どんなことがあっても食い込まれない。社会的に成功して裕福ならば幸せだというのはあたりまえ。その一方で裸身ひとつでもOKという信念があれは人間として強く生きれるのだけど。