禅寺小僧

日々の記です。

自己ケンオな人

門前の看板を見て来ました、といつものメンバーとはちがう人の参加があった。訊くと厳しく生きたいのだとおっしゃっる。毎日ダラダラと生活するのは嫌いじゃないようなのだけど、ある一点に到達するとこんどは自己嫌悪に陥ったりするらしい。なんとなくわかる気もする。何の生産性もない生活だから、、、そのデンでいくと誰かさんも全く生産性があるわけではなく、そして確かにブラブラしている。けれど別に自己嫌悪にはならないな。その人だってまじめに勤労して周りの人と何がしかのつながりをもてたらそんな感情も起こらないのだろうにな、と思った。取り残されたような気がするんじゃないか?大きい仕事をしている自分が好き。何々である自分が好き、という人はその何かがなくなってしまったら自分という意識のことを好きでなくなってしまうのだろうか、新しいことに踏み出せない弱さと怖れからニッチもサッチモいかなくなるのだろうし、ある程度まじめで責任感のある人がそうなるのかもしれない。世の中では、何かしたから楽しい、自分を認めることができる、といったふうであると思うけれど、そうでもない価値観もあって、それは、生きているだけで楽しい、という感情だ。ナニをしないでも、作らないでも、楽しい。生きているだけでいい、と思える人生。案外それが宗教的な幸せであったりするのでは、なんで思うのだが。
どう思わはったかネ。            
             
          
せ。