禅寺小僧

日々の記です。

あそび2

朝 雑踏

 まあ、そんなふうだったから葬儀のとき、
疲れたような、ホッとされたような、力が抜けて止まったままの
お姿が花に囲まれているのを見ていると、やるせなさ、
生熱いものがこみ上げてきて落涙しそうになる。
電話をすると、いつも、いつも、
「遊びにコイ。」といわるのが口癖だったけれど、
とうとう、一度も”遊びに”は行けなかった。
行事や用事があったら行ける。けれど、
純粋にその人に会いたいのならば、”遊びに”ゆけばよかった。
コトバでどれだけ「一生の友達だよ。」「絶対、会いにいくから。」
といったところで実際にその人のそばに行けなかったら、
それだけのモンだ。相手を愛してはいない。
と、言った女友達がいたけれど、
遠いからとか、また今度に、なんとか言いながら、
相手より、自分の都合を優先していたのだった。
自分が先に立っていただけのことだった。
僅かな旅費をモッタイナイ、とケチりたかった自分がいて、
そんな小さなことを気にしていた自分が情けなかった。
そんなことに今更気づいても、もう手遅れだった。
お見舞いと葬式に行けただけ。
お見舞いと葬式にしか来ない俺を兄貴はどう思ったろう。
人間の一生はホンのつかの間、
遊べるうちに遊ばないと。
仕事や世間体、修行、学問、社会活動で付き合うのもいいけれど、
何の理由もない、利益もない、ただの”遊び”の付き合いに
はかなわないんじゃないか。
付き合いの純度と密度と親密さが濃いのじゃないか。
そんなこともふと、おもう。
兄の人生の中でいちばん良かったのは修行のときだった、という。
みんながニ六時中、膝を突き合わせていて息苦しいぐらいだったけど、
お互いの距離も近すぎるぐらいに近かった。

遊べるうちに遊び、生きれるうちに生きたい。

明日はお釈迦さんが泣くなられた日、涅槃会だ。

あの人が心から生きたい、と願った一日を、
今日もまた、なんの気無しに、生きている。


せ。