禅寺小僧

日々の記です。

「懺悔文を読む」〜懺悔の心〜










お経を読み始めるときに読む懺悔文は華厳経の中の一節です。華厳経とは「仏の飾りと名付けられる広大なお経」という意味で、東大寺の大仏もインドネシアのボロブドール遺跡の彫刻も華厳経の世界を表しています。「入法界品」、さとりの世界に入る章の中で、善財童子という少年が旅に出て、五十三人の人を訪ねて教えを受けます。東海道五十三次は、お江戸日本橋から京都三条大橋まで五十三の宿場町の数ははここのお経からきています。善財童子が五十三人のあらゆる人々から教えを受けた最後に普賢菩薩(あまねく賢い菩薩さま)を訪ねられて、教えを詩として示されたのです。














我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋癡

私が昔から造りしところの諸々の悪業は
みな始まりとてない、貪り怒り愚かさによるものです















こちらの絵はブータン王国のものです。命あるものが天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄をぐるぐる生まれ変わる六道輪廻図です。図の中心は煩悩です。生まれ変わる世界は「業」によって導かれます。善い行いをすれば善業のパワーを生んでいい所へ生まれかわります。悪い行いをすれば悪業パワーに引っ張られて悪い所へ生まれ変わります。














仏教で「悪」とは無慚愧。つまり反省がないことですが、悪業を生み出す原因は煩悩です。図の中心には3つの煩悩が描かれています。「鶏」は貪(むさぼり)、「蛇」は瞋(怒り)、「豚」は癡(おろかさ)を表しています。現代人の時間感覚は過去から現在未来へむけて時間が流れてゆく直線的なものですが、古代インドの時間感覚はぐるぐる巡りつづけます。。歴史の記述にも月日は記されていても年は書かれていません。始まりも終わりもない、貪り、怒り、愚かさ、鶏と蛇と豚が私たちの心を蝕みます。チベット医学では病気の源は貪瞋癡だとされています。現代日本の医学では救命が目的ですが、チベット医学では健康になる目的とは仏教を学んで悟りを得ることです。














私たちは貪りによって、怒りによって、愚かさによって自分自身を殺しているのです。行き詰まりの原因は何でしょうか。くやしさ、悲しさ、何十年たっても自分の心の記憶の中に眠っている、怒り、反発、悩み、不満に私たち気がついていますか。自分の意志で行動していると思っていたことが、実は過去の悪かったこと、ショックだったり、嫌だった時にとった行動が悪業パワーとなって働き、無意識に悪くなることを繰り返しているのかもしれないのです。














六道輪廻図の上の半分は「三善趣」と呼ばれます。上部中央「天界」は神々の世界、上部右側「人間界」は人間の世界、上部左側「修羅界」は阿修羅、戦いを好む神々の世界です。天界の神々も業により輪廻を繰り返します。













六道輪廻図の下の半分は「三悪趣」と呼ばれます。下部左側「畜生界」は動物として欲望のまま生きる世界、下部右側「餓鬼界」は常に飢餓に苦しむ世界、下部中央「地獄界」はひたすら苦しむ世界です。なお全ての世界に、錫杖を手にした地蔵菩薩が救いの手を差し伸べています。















地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上というのは、生きている私たちの心の苦しみの度合いなのです。その輪の中をぐるぐるグルグル、私たちの心は流転しています。今日は天のような気持ちでいたかと思うと、明日は地獄のようなところに落ちるかもしれません。















従身口意之所生
一切我今皆懺悔

身体と言葉と心の生ずるところより
すべてを、今、私は皆、懺悔します














仏教では身体と心を分けて考えません。むしろ身体と言葉と心は、その場を包む空間も無限の過去から積み重ねてきた時間も含めて一体であり、お互いの人格を象徴しているのです。人には誰にもその人独自に受け持って生きるいのちの流れがあります。自分のいのちの流れを、まさに我が命として受け取りきることが仏さまの世界の入り口です。















よく自業自得といいますね。アイツは悪いことをしてるからそれが原因となって、報いとして悪い結果になったんだ、ザマア見ろ!というような。そうではありませんね。本当に自分のいのちを我が命として自得する、受け取りきる。善いことも悪いことも、自分で意識しているものも意識に上ってこないことも全てふくめての「一切」。輪廻してゆく時間の無限の過去と未来の関わり合いの中の一点である「今」私は悔い改めます。結論や解決策が見つからずに悩み苦しんでいる私ですが、この人生の流れをありのままに受け止めながら、菩薩の心で悟りを求め、多くの人たちを救ってゆきます。














善財童子はいろいろな人に会い、光景を眼にして旅を続けていきます。お坊さん、お金持ち、王様、土俗の神様、女の人も二十人もいます。五十三人というのは、出会うすべての人がお互いに学びあい、師となるものなのだということです。そして人間のさまざまな感情、怒りも悲しみも苦しみもすべてが救いの手だてであり、悟りへの入り口なのです。
















参考資料 NHK教育テレビ「こころの時代」善財童子の旅〜「華厳経」を読む〜
 大須賀発蔵 昭和六十二年三月1日 


愛・地球博ブータン館展示より 撮影:山田拓






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