禅寺小僧

日々の記です。

教えのかなめは心をおさむるにあり

―よりよき人生を創造するためにー
 












   

実にこの世では、恨みによって恨みが鎮まるということは決してない。恨みは、恨みを捨て去ることで鎮まる。これは永遠の心理である。(ブッダのことば)




ブッダとは目覚めた者という意味で、お釈迦さまのことです。お釈迦さまは菩提樹の下で坐禅をしておられるとき、明けの明星を見て、目覚められました。悟りを開かれたのです。釈迦族の王子であられたお釈迦さまは、お悟りを開かれて目覚められ、ブッダとなられたのです。ブッダとなられて、お釈迦さまはどうなられましたか?お姿が変わられたのでしょうか?いいえ、心の持ちようが変わられたのです。
マンガの神様、手塚治虫さんのマンガに「ブッダ」という長大編があります。釈迦の生涯を描いたもので、映画にもなっています。みなさんもチャンスがあったら是非、読んでみてください。ところで、このあいだ似たタイトルの「ブッタ」というのを紙芝居屋さんに教えてもらいました。たった四枚の掌編で、本編の紙芝居の前に前座でする、短いものです。














1、ブタが、ブタを、ブッタ
2、ブタれたブタが、ブッタブタを、ブッタ
3、ブッタブタが、ブタれたブタを、ブッタ
  ブタれたブタが、ブッタブタを、ブッタ
  ブッタブタ、ブタれたブタ、ブッタ
  ブタれたブタ、ブッタブタ、ブッタ
  ブッタブタ、ブタブタブタブタ、ブッタブタ、ブタ!
4、ブッタおれた








ブッダという言葉を子供さんに覚えてもらうだけの紙芝居です。ブタとブッタという言葉だけでできている、テンポがいいだけの、言葉遊びです。馬鹿馬鹿しいですネ。でも、ちょっと見過ごしにもできない。チベット仏教の六道輪廻図では、輪廻の車輪を回す中心に、貪りの鶏、怒りの蛇、愚かさの豚として描かれているのですが、私たちは愚かな、しかも争い続けるブタになっていないでしょうか?
心がスカッとするときって、どんなときですか?我慢に我慢を重ねてきて、耐えに耐えて、仕返しする。これほど人々を熱狂させることはありません。仇討ち、敵討ち、主君や肉親の仇をとって恨みをはらすと、見ているこちらの心までスカッと晴れるのは忠臣蔵の時代から。借りは返す。「やられたらやり返せ!」「倍返し!」「十倍返し!」「百倍返しだ!」半沢直樹です。「晴らせぬ恨み、晴らします・・・」必殺仕事人です。この紋所が目に入らぬか!こちらにおわすお方は、先の副将軍、水戸光圀公です。心の無念や未練を怒りにまかせて、仕返しするとき、過去の雪辱をはらしたとき、嫌な人間を、やっと見返し、心の底から嬉しく思う。復讐、天誅、勧善懲悪、正義は勝つ!そして恨みは連鎖してゆきます。















昭和二十六年九月八日、全権として吉田茂首相がおもむいた、サンフランシスコ講話条約が四十九カ国のあいだで調印されて、大東亜戦争の講和が実現しました。市の中心街にあるオペラハウスで行われていた講和会議の席上、インド洋に浮かぶ小さな国、セイロン(現在のスリランカ)代表のジュニウス・リチャード・ジャヤワルデネ蔵相は、大国を前にセイロンの立場を演説しました。敗戦国日本に対して懲罰的な規定をとろうとする国を前に、日本は自由であるべきだと訴えたのです。そして日本よる被害に対して、セイロンは損害賠償を要求しませんでした。彼は仏陀の言葉を引用して、「恨みによって恨みが鎮まるということは決してない。恨みは、恨みを捨て去ることで鎮まる」仏陀のメッセージがアジアの数え切れない人々の生涯を高尚にしました。その波は南アジア、ビルマラオスカンボジア、シャム、インドネシア、それからセイロンに伝え、そしてまた北へはヒマラヤを通ってチベットへ、中国へそして最後には日本へ伝えました。このことが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのです、と訴えたのです。















恨みの連鎖は、あなたが断ち切らねばなりません。怒りにおおわれたとき、自分は正しい、正義だ、自分は力があると信じているとき、注意してください。冷静な判断はできていないでしょう。自分で決めているつもりで、まわりに振り回され、翻弄されています。あとになって、なんでこんなことをしたのかと、後悔するのです。禅とは梵語で「禅那」「ディアーナ」という言葉の音写です。「静かに慮んばかる」という意味です。姿勢を調え、呼吸を調え、心を調える。この心が仏陀の、禅のこころなのです。


「恨みは、恨みを捨て去ることで鎮まる」














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