禅寺小僧

日々の記です。

半銭にあたいせず。





どんな意味ですか?
と尋ねられる。


須彌南畔   須彌山の南のほとり
誰会我禅   誰か私の心をわかる人があるだろうか
虚堂来也   虚堂和尚が来たぞ
不直半銭   半銭の値打もない


そうですね、
須弥山の南の畔に、インドとか中国、日本があるんですが、
誰が私の心を知っているだろうか、
虚堂智愚禅師が来たとしても、虚堂智愚禅師は中国の禅僧で
留学してしていた日本の大応国師禅宗を伝えた偉人なんですけれど、
半銭の値打ちもない。って言ってるんです。
一文銭を半分に切ってしまったら、何の値打ちもありませんわね、
そんな一生だ、と。


これは一休さんの88歳で亡くなられるときの遺偈で、
誰かのマネをしたのではない、自分の生き様と境地の、
高らかなオリジナリティ宣言と受け取られてます。
生の最後の最後、このような境地で死に望めるのは大変な
ことなんですが、


自分の一生と今の境地を表す以外に、
なんか弟子にあてて、言うてるような気もしますねえ。
俺のマネをするなよ。と。
だいたいエライ人の弟子になると、そのことを自慢したく
なるものじゃないですか?
「俺はあの偉い人の弟子だぞ、」って。
あるいは俺の師匠はこんなに偉かったんぞ、と言いたい。
そして師匠のマネをする弟子が出てくるんでしょう。
それは自分の師匠を敬愛するがゆえなのでしょうけれども。


あるいは寺やなんかの格式や大きさにしてもそうですわね。
けれど、それではイカンのだ、








虚堂来たるなり、
でも半銭の値打ちもない。
自分の禅仏教は虚堂和尚の心をもはるかに凌駕しているかのような
自分自身が虚堂和尚のようないいぶりではあるけれど、これは反語で、実は
最後の最後まで虚堂和尚を追いかけて、敬慕してきました。
ということ。
署名にも虚堂法孫と書かれているのがある。


一筋縄でいかんのですよ。
けなすような振りをして、実は褒めている、ってが多いですからね。
禅僧は。