禅寺小僧

日々の記です。

固有なるもの。


         
         
            
世界宗教といわれるものにはキリスト教イスラム教、ヒンズー教、仏教とあってそれぞれ見てみたいものだとおもうけれど、イスラム圏、ヒンズー圏にはまだ行けてない。旅行できるチャンスがあればいいんですけどね。世界中のそれぞれの地域にそれぞれ固有の文化と宗教とイデオロギーがあって、外部者はその中になかなかはいれないし、理解するということも難しい。それでいてその地域に住んでする人々は現在もそれで生活し、過去からそうであって、未来もまたこのまま続いてゆくことだろう。それはその場所その民族に固有のものであって連綿と引き継がれてゆく。







夏の京都は暑いのだけれど、観光に来ていただいたので、今日は一日お寺の説明をしていた。本堂は質素で派手な飾りというようなものは無い。けれどこれはわざとそうしてあるので、昔の立派な和尚さんの心象なんである。立派で、神々しくて、きらびやかで、本尊さんや本堂がありがたそうであるからお参りするのではないし、何かいいことがありますようにとお願い事をするのでもない。新しい車を買ったらうれしい、子供が大きくなったらうれしい、新しい出会いがあったらうれしい、仕事がうまくいったらうれしい。人の欲望と願い事は星の数ほどあるけれど、修行底の人ならば、喜びのタネのようなものがなくても、純粋に生きているだけでうれしい。だからそんな人には余計な本堂の飾りはうっとしく、うるさい。ガランとしているほうが心地いいものなのだ。そんな本堂の板敷きの中に坐っていると、やっぱり不思議にこころが落ち着いてくる。何物にも引っ張られずココロが素になるというのかな。その辺。







日本人は神社にも教会にも寺にもいくから無宗教だと言われたりもしているようだけど、結局のところいろいろな場所でおまいりしたとしてもその向かう先は自分の心の素になるところではないかと考えている。手を合わせているとき、神社の神に、教会のイエスに、寺の仏にあるいは御先祖さんに手を合わせているようでもあり、それでいて自分の心の深い場所に向かっているような気もする。純粋な宗教というのは結局はこんな所なんじゃないか、宗教は寺の中にあるんでもないし、経典にあるんでもない。行きつくさきはアンタの心の中。そう思えば神だゴットだアラーだブッダだと呼び名は変わるけれど人の心の中を覗くことができるなら人類全体同じことを違う呼び名で言っているのかもしれない。けれど現実は宗派や教義で形作られていて、それが無いと宗派として時代を超えて存続していけないからなんだろうけれど、人間が集団になって一つの考えでまとまるのはいいことも多いけれど、罪なことも多い、とおもう。