禅寺小僧

日々の記です。

座禅会

 「自分がわからんとは、かわいそうな。」
といったのは放送局に長く勤めて、社会的に出世した人
だったのだけど、そのときはもう病気だった。薬のおかげで
痛みはなかったようだけど、しばらくしてお亡くなりになった。
強い「我」を打ち立てねばならない。しかも、すぐに。
そうでないと社会のスピードが待ってくれない、置いていかれて
しまう、というけれど、なんだか、我を打ちたてる、というよりも
社会のスピードに流されてゆく自分を、「これでいいのだ。」
と決めてかかることのように思える。自分自身を限定して、
狭めて、それでもってよし。と信じこんでいるのではないだろうか。
そうでないと社会からおいていかれるよ。という不安が見え隠れする。
本当に自分自身の心に問いかけてみて決めるのはなくて、なんとなく
世間を見渡して、こっちの学校のほうが一流である、という世間の価値観に
合わして、自分の進路を決めたことが誰にでもあったはずだ。
自己を打ちたてる、とは主義やイデオロギーから言葉をかりてくることではなく、
自分の奥底から出てくるものだが、亡くなった放送局の人が、
どういう深さから言ったか、が聞いている本人にはわかってしまう。
「あなたの言っている自分、というのとは違うんだ。」と。


 禅宗の道場で坐禅したり、托鉢したり、作務したり、禅問答したりして
何をしているのかというと己事究明、自分をあきらめることだ、とこのまえ
言ったけれど、その己事究明を求める強さが昔と今では違うんではないか。
かつて戦争であったり、不治の結核であったり、自分自身ではどうにもならない
ことに翻弄されていた時代のほうが、求める強さも、人の数も多かったように
思える。はっきり言えば、今の人はそんなことを求めていないのじゃないか、
と感じるのだ。修行僧も道場にはいるとき「コジキュウメイ」と思っている
のだろうけれど、それは自己の奥底からの、止むに止まれぬ感情なのか。


 坐禅がしたければ、日本全国に何所にでもと言っていいほど、禅寺が
溢れているから、「こんにちわ。」と入っていって和尚さんに教えて
もらえばいい。どの和尚さんも修行をしているのだから、坐禅のやり方は
知っている。座禅会をしています、と看板のあるところだけを探すことはない。
けどやっぱり禅寺も社会のスピードに流されて、急がされているのだろうか。
 

 門戸を開放しているといっても、それぞれに坐禅して、
目まぐるしい世の中でちょっと、立ち止まってもらってるだけ、
それをただただつづけているだけなんだが。




 1月28日は座禅会休みます。