禅寺小僧

日々の記です。

禅とは










デイアーナというインドの言葉を音写して「禅那」ともともと言っていたのがちぢまって「禅」と言われています。その意味するところは「静かに慮んばかる」つまり、静かに考えるというような意味なのですが、何のために考えるのかというと、三昧にはいるためです。


坐禅中、自分がしている息をの数を数える数息観や、難しくて答えのありそうもない禅問答ーーー(両手を打てば音がするけれども、片手の音はどんなだ?とか、父母の生まれる前の自分は?とか、箪笥の中から富士山を出してみろ!とかいろいろ)を考え考え、毎日毎日答えを師匠のところに持っていっても、そのごとに違う!という意味で、黙って鈴を振られ否定されつづけて、何ヶ月もつづいけば、もう言うことがなくなり、考えることがなくなり、考えるという心の働きも止まってしまいます。これが三昧です。あれ?自分が無い?ぞ??突如自分がなくなり、周りの風景が雪崩れ込んできます。名前も意味も離れて、ただ見え、ただ居ます。


「仏の教えを受けるというのは、自分自身を教わるということなんだ。自分自身を教わるというのは、自分を忘れてしまうこと。自分を忘れてしまえば、周りの風景が雪崩れ込んできて景色と一つになる。周りとの隔てが無くなって景色と一つなるというのは、自分と周りの身体も心もすべて放って捨て去ってしまうことである。」と、日本の鎌倉時代の名僧で曹洞宗の開祖、道元禅師(1200年〜1253年)がおっしゃっています。自分を忘れることが大切だと。



見る、聞く、匂ぐ、味わう、触れる、自分の体内の内部感覚などをもとに認識、判断し、さらに思考によって新しい認識を生み出す知的能力。このときこそ自分が生きている。これが人間の精神作用の素晴らしさだと思われています。この素晴らしい知性を停止させようとするのが坐禅です。坐禅をしてゆくと自分という意識を手放し落としてしまいます。自分という意識が薄れると心の悩みも減って楽になります。自分という意識がが強ければ強いほど、自分を苦しめるものだからです。一度でも三昧に至れば、なんか生きてゆくのがラクになるのです。





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